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京都と中也を結ぶNPO法人京都中也倶楽部
 works > 書評11〜20
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020 対象書名:『ブック・アートの世界、絵本からインスタレーションまで』中川素子・坂本満編、水声社、3000円(税別)
掲載紙:『形の文化研究』第3号
:2007
  私もそうだが、大方の読者は書名の「ブック・アート」と聞いても、アート・ブックつまり美術書と間違えたり、あるいは本の装丁や製本とかを思い浮かべたり、本に挟み込む挿絵を連想したりするだろう。それも無理はない。編者である中川氏の前書きや坂本氏の談話記録などを読むと、ブック・アートという言い方は、今回、暫定的にとられた命名らしい。市民権を得ている語句ではない、というのである。それでもあえてブック・アートとしたのは、「本とアートの交差するところに生まれる世界」の拡がりを見渡す「イメージ」、を指す言葉として、ひねり出されたようである。つまり、ブックそのものをアートの対象、オブジェとして過激に扱うことを指すようである。「過激に」というのは、理由あって評者が勝手に挿入したものである。

 本来、書籍としての本には、機能として広く情報というものを伝達するメディア性が付いて回る。愛と憎しみの詩句を連ねたり、聖者たちの言行を文字に刻みつけたり、絵と文で幼い想像力を刺激したり、ときには無味乾燥だが宇宙の深層に直入する数学的記号を配置したりするのが、メディアとしての本であったはずである。しかし本書でアーティストがブックというとき、それは四書五経の書籍でもなく、聖性の権化であるホーリー・ブック(聖書)でもなく、本として公認されてきた情報伝達という機能をはぎ取って、ずしりと重い角張った物体そのもの、表紙がありページが繰られる具象物としての書物としてのオブジェを指すようである。したがってブック・アートの世界では、ブックたちはアーチストによるさまざまな解体と介入と再編成に甘んじなければならない。どちらかといえば愛書家に属する評者から見れば、そうしたアーティストの試みは理解できるが「過激」に見え、ブックたちの悲鳴を耳にするようで、まことに坐り心地が悪いのは事実である。

 本書は、20世紀初頭から近年に至る内外のアーティスト三十数作品を紹介するかたちで、中川氏を含む4人の研究者(森田一・山田志麻子・田中友子氏ら)がエッセイを寄せてできている。表紙をくるむ腰巻きほぼ全身を包まんばかりに大きく、そこに大きく谷川俊太郎の詩「アートになるとき、本は著者を超えてそれ自身の生命を生き始める」と詠われている。

 内容を繰っていくと、アーティストの冒険は、時間を追って過激になるようだ。

 テンペルやエルンストのコラージュも、マティスの切り紙絵も、まだテキストへの介入程度である。読み進んでコルビュジェの「直角の詩」になるとテキストとオブジェの融合が始まり、ウィリアムスのコンクリート・ポエトリー本になると、文字がすでにオブジェに変わる。さらに記憶の堆積、心の風景につながるものとして、柄澤斎の版画集「方丈記」やエイドリゲヴィチウスの絵本写真「読書する人」などが取り上げられる。しかし「過激」と思ったのは、表紙などのくるみに洞凸画板を使った稲垣足穂・中村宏の「機械学宣言」以下のブック・オブジェの作品群である。西村陽平の焼かれた粘土陶器のような「新修漢和辞典」や焼け焦げの痕跡をたたえた鉄本「アイアン・ブック」などである。さらには未来の領域としてゴダードらによる鑑賞者の38本の指を並べた写真絵本「ホールドアップ」などなど。最後を締めているのが福本浩子の大小さまざまな穴あき行の本「バベルの本」であった。

 いまアーティストたちが、本の解体をどう進めているかを知るには有益な本である。しかしこれまでのところ、グーテンベルク以来の書物の形態は基本的に健在である。ブック・アートである限り、いくら破壊してもブックであるかたちが見えなければ「ブック」アートにならない、という自己撞着的アートの世界のためであろう。いま出版不況の中で、ネット本がテキストの提示法を変革しつつあると同時に、アーティストたちが本の意味を奪って形態を変貌させる。考えてみれば、21世紀はまさに書籍にとって、グーテンベルク以来最大の受難時代になったといえるかもしれない。
019 対象書名:『1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見』 チャールズ C.マン著 布施由紀子訳、NHK出版、3,200円(税別)
掲載紙:日本経済新聞
:2007.09.02
 コロンブスが新大陸に到達した1492年以前のアメリカ両大陸には、ヨーロッパ全土より多い一億人もの人が住んでいた。ボリビアの僻地の僻地とされる麻薬取引で悪名高いベニ地方には、南米で最重要な古代共同体が三千年以上前に存在していた。家を建て、マウンドを築き、通信、輸送用の堤道を設け、魚をとる梁を仕掛け、森の侵入を防ぐためにサバンナを焼き払った。ベニ王国は人口百万で世界一。のっけから、これは驚きである。

 著者は科学ジャーナリスト。人類考古学の成果を精力的に取材し、新大陸をめぐる定説をつぎつぎと覆す。600頁を超す大著だが、じっくり取り組めば、世界史の空白を埋めるスリリングな読書体験になろう。全米年間最優秀図書に選定されただけのことはある。

 ベーリング海峡が陸でつながった時期よりはるかな昔、農業革命(新石器文明)以前にユーラシア大陸を去った人々が古代文明を築いていた。独自にトウモロコシやカボチャの品種改良に成功し、世界一栄養価の高い食事を摂っていた。インドよりも先にマヤで数字のゼロを発見した。アマゾン低地では樹木利用の森林農法が発達、標高3000メートル以上では、万年雪の水で段々畑の灌漑に成功、高地農法が発展する。インカの高度な冶金術は、展性と塑性重視の箔による装飾を中心して、堅牢な武器造り中心の西欧と異なる、などなど。

 西欧文明との出会い当時、中米にはマヤ文明(ユタカン半島)を引き継いだアステカ文明(現メキシコ領)が栄え、南米アンデス山中にはオスマン帝国をもしのぐ世界一のインカ大帝国が支配していた。それがいずれも数十年で消滅した。インカ破滅の原因は、ピサロらの鉄器と馬ではなく、天然痘と神権体制と内紛であった。ミシシッピー川流域に密集していたアメリカ・インディアンの大集落は100年で消滅した。この原因も、実は歩く食肉であった豚300頭を病原とする人と動物への急性感染(炭疽病、結核、天然痘など)であった。

 インディオ遊牧狩猟民族説は西欧の征服者による神話にすぎない。
018 対象書名:『生命観の探究』鈴木貞美著、作品社、7,600円(税別)
掲載紙:週刊読書人
:2007.08.24
 本書は、鈴木貞美氏のおそらくライフワークの一冊となる大著である。2800枚、A五判二段組で文献・索引まで入れると914頁に及ぶ。生命を第一義にして、生命中心主義(life-centrism)、あるいは生命主義(vitalism)という視点から、「自然科学や宗教、哲学、文芸、美術、日本の武芸」までを含む世界思想史の流れを取り上げ、「いわば生命観の歴史的・地理的マップ」を描くという野心作である。

 鈴木氏は「生命原理主義」ともいっているが、その方法は、生命とは何かを問わず、すべての生命についての言説を比較検討して、共通する原理を新たに原理とする立場、だという。大正生命主義というかたちで、大正期の文芸思想に共通した原理と枠組みの摘出に成功した氏が、東西の異分野に切り込んで格闘した報告が本書であるが、こういう原理の有効性は遣い手次第である。それだけの力量、つまり幅広い歴史的教養と深い鑑識力をもって初めてできることで、本書は氏の底力を証してあまりあるものになった。

 「本書は専門書ではない。水準は百科事典などに記されている範囲にとどまる」と卑下されるが、けっして門外漢の議論などと甘く見てはならない。専門各分野の学者相手に、鈴木ソクラテスが、無知の知として対話してきた実績は大変なものである。本書に自信が溢れているのは、国際日本文化研究センターなどを中心とする数次の共同研究、積み上げてきた雑誌特集や単行本を踏まえ、かつ、大正生命主義を過去四半世紀にわたって主唱してきた、という背景があるためであろう。評者もそのいくつかに加わったが、鈴木氏は、いまや文芸研究者としての枠組みを超えて、学の総合化を目指す有為な思想史家として、その立場を確立されたと思われる。

「通説を打ちやぶる議論をそこここで展開する」と宣言するように、指摘鋭く、専門家を問いつめ、評者も教えられた点が多々ある。「闇雲な突然変異」あっての「生物多様性」は生態系の安定とは矛盾するのでは。文化多様性とか言語遺伝子などと軽々しくいうな。交雑種や遺伝子工学で作成した種は新種なのか亜種なのか。「命は地球よりも重い」は政治家のご都合主義から出た格言だ。明治の論客山路愛山や西周らはキリスト教の超越神の性格を掴みそこなった。露伴の「努力論」は自然科学の知識を動員した道教養生術。「生命主義」の最初の使用者は田辺元(1922年)か。「自然随順」の日本文化論の図式には自然のもろさの認識が抜けている、等々である。最後の指摘に一言すれば、局所的破壊である「公害」から「地球環境」に論点が移り、人類の使用エネルギーや廃熱問題が自然エネルギーの変動に響くようになったのは、20世紀後半、60年代以降であり、自然のもろさ認識は意外に新しい、と私は思うのだが。

 本書は序説以下、全一二章からなる。12章の表題をあげれば、(1)人間思想と進化論受容、(2)生物学の生命観-20世紀へ、(3)20世紀前半-欧米の生命主義、(4)前近代東アジアの生命観、(5)自然の「生命」、人間の「本能」、(6)生命主義哲学の誕生、(7)大正生命主義ーその理念の諸相、(8)大正生命主義の文芸、(9)生命主義の変容、(10)第二次大戦後の生命観、(11)20世紀の武道と神秘体験、(12)新しい生命観を求めて、である。これだけの広大な領域を扱い、時間的にも19、20世紀に限らず、前近代東アジアの生命観の章では、それこそ古代神話から中世仏教、近世朱子学、陽明学、本居らの国学を一覧するのだから、日本思想通史を語るようなものである。とても、限られたスペースで内容を祖述することもできない。

 そこで鈴木氏が、あくまでも謙虚に知の共同作業を呼びかけ、提案しているのでそのことを検討してみよう。「それぞれの生命観を、神との関係において、考えなおしたうえで、目的論と機械論、還元主義と全体論という二軸四極の構図によって分析しなおす」(818頁)という提案である。

 おそらくこの方法は、鈴木氏の意図しているエンサイクロペディスト的整理にとって有効であろう。しかし全体論と還元主義の問題一つとっても、生命を直覚知で捉えるか、分析知で捉えるか、の出発点の違いがまずあり、地図ができても出発点の違いまで解消しうるものではない。また、認識と記憶の問題を、心のレベルとエイジェント(心の断片)の結合から理解することを提案しているミンスキーといった人工知能学者は、機械論者かもしれないが還元論者ではなく、目的的な説明は排除するが、目標は導入可能とする。鈴木氏のいう二軸四極構図という地図も一筋縄ではいかない問題がある。

 化学物質にすぎない遺伝子がさまざまな概念を心の中に作り上げることができるのか、犬と猫をさえ区別できる機械は作られていない現状で、いささか評者にとって望蜀の観があるが、それを綴っておくことを許してもらおう。

 生命科学の歴史でいえば、ドーキンスやモノーで繋いだDNA中心主義でないもう一つの大きな流れに目配りがあってよい。遺伝子工学のナノバイオロジーまで解説するのなら、エラノス学会でも活躍したスイスの動物学者ポルトマン、生命科学の歴史的再検討を行ったL.L.ホワイト、わが国で比較形態学の独自な世界を拓いた三木成夫、生態学的視野から今西進化論を唱えた今西錦司といった、ゲーテ的生命観の流れである。これは西田哲学の生命観を読み解くキーワードになるだろう。動物世界の独自な認識構造を読み解いたユクスキュール一人では、いかにも物足りない気がする。

 西田哲学の生命観について、鈴木氏は「生命主義哲学の誕生」として、第六章(373-424頁)をあてて、丁寧に解説している。西田哲学理解の上で人を蹉跌させる用語、絶対矛盾的自己同一の論理も、生命原理から把握できると主張している。私は、西田と裏合わせになっている鈴木大拙の思想を経由して初めて、自力・他力論とともに理解できる話だと思うが、本書ではほとんど大拙に言及していない。大拙の日本的霊性論も、平田篤胤の幽冥界以上に、日本や世界の宗教的生命観に大きな影響を与えているはずである。これに関連して、生命の根底にある「無意識」の視点が薄いのも気になる。本書でも、前衛美術の生命観として、シュルレアリスム運動を取り上げ(214-215頁)、ショーペンハウアー哲学で触れている(188-190頁)が、これは枝葉の問題ではないと思う。

 しかしこれだけのスケールで、これだけの素材をこなした鈴木氏の功績は大いに評価すべきである。鈴木氏がいわれるように、生命主義に係わる真の意味での共同研究が新たに展開できれば、素晴らしい。この著作はその立派な土台を提供している。
017 対象書名:『日本人の大地像 西洋地球説の受容をめぐって』海野一隆著、大修館書店草思社、2,800円(税別)
掲載紙:週刊読書人
:2007.02.09
 著者は本書校正中の昨2006年に亡くられた。したがって本書は、多年にわたって地図や地理をめぐる東西文化交流史の諸相に光を当て続けた研究者の遺稿になった。

 前著『地図に見る日本 倭国・ジパング・大日本』と違って本書では、もう一つの側面、日本人の大地像、地球観に焦点を当てている。宇宙の中心に球体の不動の地球があり、それを中心として天球が巡るという地球天動説(プトレマイオス宇宙体系)は、地球地動説(コペルニクス体系)以前のキリスト教世界では共通の世界観であった。本書はこのうち、地球説の部分がどう摂取あるいは反発されたかを問題にする。最初の3章をなす三本は四半世紀前の雑誌論考であるが、それに四章以下の書き下ろし10本を加えて長短全13編に上る論集になった。著者晩年の考えを伺うには十分な内容を持って構成されている。

 扱う領域は大きく三分野である。一、南蛮以来の西洋地球説の伝来(ゴメス「天球論」と日本人までの最初の4章)、二、専門的な天文暦術家や通辞たちによる受容(7、9章)、三、周辺分野の学者たちによる応接(5章の儒者、6章の神道家、8・9章の仏教家、12章の国学者)である。これに地球説の大衆化(10章)と近隣諸国における受容問題(13章)の2章が加わっている。

 一、二では、天円地方の渾天説が変容した大地直方体説が李朝初期の朱子学者権近に始まり、中国にはないという主張や、これが林羅山以下のわが国の朱子学者の大地像に流れ込んでいる、との指摘が興味深い。本書の中心問題ではないが、飛鳥の水落遺跡が定説の水時計跡ではないとする著者の主張は、考古学的現地調査の知見によれば、同意できない。しかし本書の特色は分野三、とくに神学・国学者と仏教説からの応答の部分にある。

 一つは、天動地球説がすでに南蛮文化流入以前にわが国に入っていたのか、という問題である。14世紀の神道家忌部正通の『神代巻口訣』(江戸初期刊行)に、二重同心円図を掲げて、定まって動かない中心円の地をめぐって天円が動くという記述がある。正通が地球説に独力で達したと忌部派の主張があるが、海野氏は、『神代巻口訣』を18世紀に「地輪ノ図」を描いて地球説を説いた忌部常春ら後代の偽書とし、正通の存在もでっち上げと断じている。史料批判の重要性を喚起する一節である。神学畑でも、後代18世紀の淨慧の『本朝天文図解』は緯度平行な球状図法をもつ詳細な世界地図を載せ、淨慧を「かなりの天文地理学者」と評価する。大地平板説の仏教須弥山説は西洋天動説と相容れないはずだが、初期には「方便仮門」として容認され、200年も経ってから時計仕掛けの須弥山説を擁護して反論がつづく事情も興味深い。円通の『仏国暦象編』やからくり儀右衛門を動員した弟子の環中らを巡る動きは、明治に入っても佐田介石の「視実等象儀」を生み出した。キリスト教排撃の護法運動というイデオロギーに、いかに科学が利用されたか、反省材料として読み取るべきくだりである。

 論点中心の記述である本書は通史でないから、シドッティもスピノラも本多利明も扱われないし、天文学の先に地理学の重要性を指摘した西川如見の知見への目配りも十分とはいえない。しかしそれを補ってあまりあるのが懇切な文献紹介である。それらを遺産として後続研究が出ることが期待される。(科学思想史専攻)
016 対象書名:『江戸鳥類大図鑑』堀田正敦著、鈴木道男編著、平凡社、36,750円(税込)
掲載紙:週刊読書人
:2006.05.26
「見事な総合的博物誌に結晶」

 偉い人がいたものである。もちろん江戸後期に幕府中枢にいて、寛政の改革にあたる一方、京から本草学の小野蘭山を呼んで江戸博物誌を振興させたあの若年寄、堀田正敦の名を知らぬはずはない。しかしあの多忙な正敦が、学者や大名仲間の協力を仰いだとはいえ、40年もかけて江戸鳥学の精華ともいうべき『観文禽譜』に纏めたのを、本書で手にしてみると、唸りたくもなる。文化文政期、和歌をよくし『源氏物語』の講義もし、本草初め諸学に通じた江戸教養人の鳥趣味が、見事な総合的博物誌に結晶したのである。

 本文は決定稿に近い仙台本を主に、それに図譜部の諸本をあわせ、さらにまた、編著者の鈴木氏による懇切な解説と図を補ってなったのが本書である。大枠は『本草綱目』に準拠して水禽・原禽・林禽・山禽と生息域で大別したとはいえ、堀田の学問的情熱と鈴木氏の周到な配慮が江戸と現代で結ばれあって、実に、読み応えも見応えもある大図鑑になった。項目数734、種数438。集録図は1243点、うち正敦の『観文禽譜』以外の図譜から鈴木氏が補った鳥図は49点に及ぶ。各項目の冒頭に鳥名、別称・異称・漢名を揚げ、漢名の発音を「反切」によって表記している。あわせて、古今和漢の出典とともに掲げられる内外の詩歌、文献と体験を重ね合わせた解説、といった正敦自身の釈名がまた素晴らしく、鈴木氏の補説がなお本書の有益性を高めている。

 本書を手にして、気になる鳥たちをつぎつぎと繰ってみた。巻頭のツル。群列の様か声からその名があるとある。丹頂は希だが、蝦夷地のウチクスリ(北海道東部)には来るので、寛政末に正敦がその旨報告したら台命(将軍の命)があって三番を捕獲・献上し、いま官園で飼育されている、と記している。いかにも蝦夷地を踏んだ幕府只一人の若年寄だけある。カリの項でも仙台体験に触れて、目撃では犬雁が多く真雁、白雁の順という。秋に渡り春に去るが、その「定居の地」も四月に厚岸、五月に択捉、夏はカムチャツカなどと、蝦夷地巡行のさいに聞きだした話を書き留める。トキは俗名でツキというらしい。「東国に多い。故に予も直接これを見た」と記す。

 種を同定するのは動植物の世界では大変なことである。正敦もときに混乱する。カモメでユリカモメについて詳述し、ワシカモメ、ウミカモメらと区別しているが、斑変わりのフガワリカモメをカモとカモメの合いの子か、とした。冬鳥として飛来した頭が灰白色のウミカモメが頭の黒い夏羽になって北帰するのを見誤ったから、と鈴木氏の注にある。太宰文学や棟方版画で気になっていた伝説の鳥ウトウも、「南部侯蔵図」でその姿を目の当たりにした。「善知鳥」と書き、「予に蝦夷地で捕獲されたウトウを全剥にしたものを贈ってくれた者がいた」とある。頭から尾まで黒いが腹下白く、目の後と頬に長い白羽を特徴とし、黄脚が水掻きのある三爪、と知ったのは有り難い。評者は、釜山で長い尾を引く全体に黒く、肩や腹が白いカササギにお目にかかっていたので、見てみた。益軒の「高麗烏」の名を引くだけでなく、正俊は、父が肥前侯からもらい受けて別荘に放し飼いして数十羽になったのを、幼い頃見ていた、というから驚いた。鈴木氏の補説から、鳴き声から「勝ち烏」とも呼ばれていて、各地の武人が好んで放鳥したとあって合点がいった。

 眼福の図鑑漫歩は楽しく、あっという間に半日が過ぎた。このへんで切り上げよう。
015 対象書名:『万物の尺度を求めて』ケン・オーダー著 吉田三千世訳、早川書房、2800円+税
掲載紙:日経新聞
:2006.4.23
 「人間が万物の尺度である」と唱えたのはギリシアのプロタゴラスだが、王政時代のフランスには八百種もの長さ・重さの単位があった。こういう度量衡のバベルの塔を破壊して、「一王、一法、一尺度」の夢を実現するには、地球を万物の尺度にするのがよい。地球の子午線の長さの一千万分の一を一メートルにする、というメートル法制定問題は、ルイ16世治下で起こり、ナポレオン体制下で完結した。今日のグローバリゼーションと同じく、コンドルセら過激な合理主義者たちの主張の成果だった。それには精確に、地球の子午線(両極を結ぶ地球面の最短線。経度線と一致)の長さ(実際にはその四分の一)を決定する必要があった。本書は、世紀の科学的事業を活写した人間味溢れた記録である。

 1792年、フランス革命下のパリを、子午線に沿って、北はダンケルケ、南はバルセロナに向けて出発した二人の科学者がいた。暴動に巻き込まれたり落雷に撃たれたり、艱難辛苦するのは同じでも、性格のまったく違う自信家のドゥランブルと懐疑的なメシェンである。それにしても南行のメシェンがバラバラの紙の束に鉛筆で記録し、矛盾するデータは捨て、隠し、改ざんしていたとは。凍てつくクリスマスと新年も関係なく、スペインで三ヶ月間に六つの星を1050回も測定し続けたというのに、測定器の精度への不審がノイローゼにさせたという。北行のドゥランブルは、現地で熱病に冒されて死んだメシェンの、業務日誌にもなっていない記録から本来の測定値を再現する難題に、同僚のデータ改ざんには完黙して、五年間も奮闘した。メシェンは測定値をいじって腕がよいように見せかけたが、平均値は変わらないようにしたから、大きくずれない結果になった。

 メートル法制定の大事業史を活写した本書を読みながら、二人を追うように八年後、ユーラシア大陸の反対側の日本で、子午線の長さ決定や日本全土の測量を始めた伊能忠敬の人生を考えていた。18世紀末の科学と天文学の盛り上がりが、洋の東西で地球を計る大事業に英才たちを駆り立てたのである。 
014 対象書名:『トンデモ科学の見破りかた、もしかしたら本当かもしれない9つの奇説』ロバート・アーリック著、垂水雄二・阪本芳久訳、 草思社、1700円+税
掲載紙:産経新聞
:2006.3
 「紫外線は体にいいことの方が多い」とか、「石油は生物起源でなく、地球深部の至るところにある」、「光より速い粒子タキオンは存在する」とかいわれたら、あなたも含めて大方はウソだと思うだろう。しかし本書は、「そうであってもおかしくない」という、トンデモ度ゼロの説明だと結論する。一方、「銃を普及させれば犯罪率が下がる」とか、「エイズの原因はHIVではない」とか、「宇宙の始まりはビッグバンはウソ」とかの一部科学者の主張は、「ほぼ確実に真実でない」、トンデモ度三の奇説だという。こうした判別はどうしてつけるのか。本書はいま示した例を含む九つの珍説・奇説を取り上げて、判定方法を吟味していく。ちなみに著者はタキオン説を主張する啓蒙物理学者である。

 「トンデモ」ない考えをクレイジーというが、それは現行の科学理論と一致しない突飛な側面を指すだけで、内部矛盾がなく論理が通り基本原理に矛盾しない考えである。「デタラメ」を意味するナッティな考えとは違う。そこで著者は冒頭、判別の手掛かりを十個挙げる。デタラメか、だれが提案者か、執着度は、統計のウソは、政治的意図は、任意な設定値が少ないか、他人の支持データがあるか、厳密な予測があるか、公開度は、常識にかなうか、である。終章で、真の科学理論は「反証可能性」がなければいけないという、科学哲学者ポパーの判定法にも触れている。

 科学の装いをしてデタラメな話は多い。ビタミンやミネラルは身体によいからといって摂りすぎたら害になる。逆に放射線や紫外線も大量に浴びたら害があるが、少量ならかえって良いという「ホルミシス」効果の考えもある。「被爆者は長生き」というホルミシス効果を思わせるある統計事例を吟味して、その統計結果は任意なデータ選択の結果であって、ガン以外の死因のみ、男性のみ、長崎のみ、特定18年間のみ、という選択のなせる業で信用できない、と切り捨てる。科学的思考とは何かを考えさせる、面白くてためになる、しかしちょっと手強い本である。 
013 対象書名:『科学と宗教、合理的自然観のパラドクス』J・H・ブルック著、田中靖夫訳、工作舎、2005年12月、3800円+税
掲載紙:日経新聞
:2006.2.17
 科学と宗教の問題は、科学者の側からは、昔のガリレオ裁判時代はいざしらず、ファラデイ流で処理されてきたと思う。「研究室を出たら科学を忘れ、教会を後にしたら信仰を忘れる」、と。もともと価値観の違う二つの信念体系には会話の余地などない、というのが大方の通念であった。本書にはこの話は出ていないが、20世紀以降、時代の空気は明らかに変わった。むしろ現代の理論物理学、生殖技術などに露呈される神聖領域の侵犯と論議領域化が、両者の接触と交流を不可欠の状況にしてきた。本書は科学と宗教の関係モデルにこれまでの、敵対するか、われ関せずであるかとする、闘争モデル、分離モデルを捨てて、第三の互恵モデルに立って記述する。16、17世紀の科学革命期から18世紀の啓蒙期、19世紀の進化論および20世紀科学の衝撃などをとうして、「互恵的」交渉を辛抱強く記述しようというのである。

 著者は有機化学者から科学史に転向し、オックスフォードの神学部教授という。当然ながら、ここで「宗教」というのはキリスト教であって、イスラム教も仏教も入っていない。例えばスピノザらの異端神学もわずかに顔を見せるだけである。しかし近代科学は、歴史的にはキリスト教的土壌において懐胎されたのだから、この限定は許されることである。

 序章を入れて全10章からなる。空間に神が偏在するということで重力の無限遠達を考えたニュートン、いわゆるプロテスタントが新科学に貢献したとするマートン・テーゼの否定、ボイルらの自然の機械イメージと護教論など、読み応えのある論点が注目されるが、本書の価値を高めているのは、第五章からの、啓蒙思想・自然神学・歴史学・地球史・進化論といった自然科学的思想の数々が、どう宗教と絡みあうかを、細部にわたって記述する部分であろう。ニュートン、ヒューム、ダーウィンと英国思想界の大物がかかわるだけに、得てに帆を上げる執筆対象になったと思われる。

 有益と思われる論点を拾い上げれば、プリーストリーの役割評価、ヒュームの言語批判とエジンバラ・サークル、カントの自然神学批判と自己組織化論、偽善者キュヴィエ説批判、代替宗教としてのヘッケル主義やフロイト主義、等々である。「神によって創造された生物はすべて創造の日から存在する」という自然神学は、巨大マンモスや化石の存在に戦いた。しかしまた自然神学を「自然の中に神の英知を認める」立場と解すれば、トロイの木馬のように、生物発生の自然法則も、神の活動の証左となり、科学的思考に橋架けたといえる。科学と宗教との関係は、このように込みいっていて、一筋縄ではいかない。

 ダーウィンは、生物が、聖書にいうように、個々に設計ないし創造されたとする「設計説」や「創造説」を批判して、自然選択による進化説を建てるのだが、ダーウィン自身の信仰は、キリスト教の一般教義を侵害し、理神論から不可知論へと揺れていた。ダーウィン主義の外に有神論的進化論やヘッケル主義もあり、本書はこれらを括った上で、進化論が英仏の政治情勢の荒海の中を教会勢力などとどう結びついたか、読みほぐしていく。

 最後に量子力学における非因果性、不確定性、相補性などの問題が、かえって宗教との共通の広場を生みだしている現状を見て、終えている。本書は読み易いとはいえないが、豊富な事例が魅力であり、有力な示唆に満ちている。
012 対象書名:『無痛文明論』森岡正博著、トランスビュー刊、2800円+税
掲載紙:週刊読書人
:2003.11
 本書は文明論という形を借りた思想闘争の宣言書である。敵はどこにいるのか。われわれの内と外にいる。われわれの内なる身体の欲望と社会的に編成された外なる無痛文明である。すでに現代は、集中治療室で安らかに眠る人間を、社会的規模で作り出しつつある無痛文明下にある。これらの装置を風化させよ。マルクスが資本主義という怪物と戦ったように、戦士たちよ、自己解体し、よく見えない無痛文明と抱き合って自己解体させよ。
 評者が意図的に著者の戦闘姿勢を強調しているわけではない。450頁を超える大部な書の至るところ、絶叫と進軍ラッパが鳴り響いている。全八章に分かれてはいるが、言わんとすることは同じテーマのリフレーンだ。正直いって、読後しばらく、全共闘時代の取材を想起させる疲労感が残った。一つには、戦争と工学の用語を頻発する森岡氏特有な語り口のせいかもしれない。「無痛身体を刺し攻撃し破壊し血塗れにし」「人生を生き切るために戦う」「自己解体させるには、それを支えるボルトをピンセットで一本一本抜き取っていく作業を進めよ」「無痛文明よ、私と一緒に死のう。お前と私がこの無痛奔流に頭の先まで飲み込まれて、ともにこの世から消滅しよう」等々。

 ロマン派ヘルダーリンの再来か、自爆テロの陶酔か、といいたくなる熱弁である。

 むろん著者は無痛文明と呼ぶ理論的論拠の構築にも身を砕く。
 人間が自己家畜化を極限まで押し進めると無痛文明が現れる。無痛文明の兆候は疑似自然作りの「ビオトープ」の思想に見られる。動物園も水族館も本物の自然環境らしく見せる。隅々まで自然があふれ快適な空間に見えるが、見えない地底にパイプを埋設し、葉陰に越えられない溝を仕組む。「ビオトープ」作りは、部分と全体の二重にわたって巧妙に技術の介入を隠すから、二重管理構造だ。こうして全地球を管理するビオトープ化が進むだろう。自然を疑え! これは「循環システムに支えられたエコロジカルな無痛文明」ではないか。ゲームセンター、妊娠中絶、安楽死などは、虚飾の都市で管理テクノロジーが勝利を収めている一例だ。 人生も地球環境も、あらかじめほどよい快適さの予想の範囲内に収まるように、二重管理する怪物の支配下にある。こんな調子でどこまでも雄弁だ。

 もともと無痛文明の出現は、快を求め苦痛を避け、快適な現状を維持し、すきあらば他者を犠牲にしても拡大する欲望(これを森岡氏は「身体」と呼ぶ)の外部化なのだ。それが、人間を内側から変えていくような力、束縛を超え出て行くような喜び(これを「生命」と呼ぶ)を抑圧する。すなわち「身体の欲望が生命の喜びを奪う」。ただしこの、無痛文明論の根源的構図にある身体も生命も抽象概念で、切れば血も出る一体となった身体的生命(この上に身体知は構築されてきた)とはほど遠い。驚くほど森岡氏の用語法はシステム工学の乾きをもつ。保身的欲望の「身体」から自己変革的意欲である「生命」を切り離し、それらがそれぞれ「行き先未定のレーシングカー」のような「知」と結びついて戦う、という戯画的構図だ。「身体」と「生命」と「知」の三元論に立って、「概念装置のネットワーク」に組み替えたというのだが、このシステム論法には異論も多いだろう。

 「生命の中心軸」の自覚や「捕食肯定論」にも問題が多い。「自分が死ぬとき自分に肯定できるもの」が、「生命の中心軸」といわれても、死ぬときにわかるのではもう遅い。それが見つからないから大方の人間は悩むのだ。自らの中心軸に生きるなら、相手を捕食し犠牲にしてもよいとするのも、強者あるいはエリートの強弁ではないか。知的弱者は、みずから風化する欲望、宇宙回帰という美名の下に切り捨てられないか。再考願いたい。

 森岡氏は、はたして時代を予見する革命家なのか、新たな教祖の出現なのか、それとも誇大な風車に突入するラマンチャ男なのか、評者には今後を見守るしかない。
011 対象書名:『タイムマシンをつくろう!』ポール・デイヴィス著著、草思社、1300円+税
掲載紙:日経新聞
:2003.7
 タイムマシンとは、19世紀SF創始者H・G・ウエルズ提案の、話題多き時間旅行機械である。ボタン一つで過去にも未来にも行けるとかいう代物だ。反物質やブラックホールの世界になじんだ物理学者が、こんな空想マシンの可能性を大真面目に論じている。まず未来と過去への行き方を考察してから、「タイムマシンの作り方」をハイライトに、最後は質疑に答える。大いに眉に唾して読んでも、そうと思わすだましの筆力はある。

 未来への行き方ならなんでもないよ、とまず宣う。光速近い猛スピードで宇宙旅行をしてくれば、タイムワープして未来のどの「日付」の故郷にも舞い戻れるからさ。特殊相対性原理である。しかしこのタイムワープは、加速・減速を含む一般相対論では成立しないという主張もあるから、そう簡単でもない。それに時を刻む間隔を半分にするには二倍のエネルギーがいるから、光速の九九・九%まで加速するには、人類全体の生産エネルギーの何ヶ月分かを必要とするという。とても大富豪、超大国でも手に負えない話である。

 過去への行き方はちょっと厄介だが、まあできるね、とつづける。それにはワームホールという手品を使う。ブラックホールは圧倒的な重力で光をはじめ万物を吸い込み、時間の終わり(特異点)への出口なき一方通行。ワームホールは似ているが、出口もあるのが違う。アインシュタイン=ローゼンの橋とも呼ばれた。特異点というのどを広げて別宇宙に出るには、負のエネルギーをもつ「エキゾチックな物質」を投入して反重力効果を生めばよい、とあっさりいう。なるほど量子真空を乱すと負のエネルギーが生まれることは分かっている(カシミール効果)。ブラックホール近くには負のエネルギーが実在するし、著者提案のレーザー・システムで量産可能?という。並行宇宙を想定する量子宇宙論が、議論には見え隠れし、信じて橋を渡るのは読者次第だ。

 まあ本書の効用は、思考実験を通じて、現代物理学の思考形式に面白く慣れる点にある。ひとつおいしい餌にだまされますか。
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