緒形拳さん最後の主演ドラマ、「帽子」の特別アンコールという番組をBSで見ました。池端俊策氏の凝縮した脚本も素晴らしかったのですが、病魔に冒され ていた71歳の拳さん演じる老いの一徹ぶりも、若者への優しさや、幼い頃から妹同様に面倒を見た胎内被爆女性への想いも見事なもので、感動しました。島田 正吾二世といった趣がありました。
98歳で大往生を遂げた新国劇の島田正吾さんは、お茶の間のテレビ「十時半睡事件帖」でその存在感に圧倒さ れ、亡くなる一年ほど前、私は新橋演舞場に出かけて、「小林一茶」に渋い脇役で出ているのに打たれたのが、私の見納めでした。緒形拳さんの師匠はもう一人 の新国劇の雄、辰巳龍太郎さんだそうですが、拳さんの渋い演技力を見いだして引っ張り上げたのは、島田正吾さんだと聞きました。まだお若いのに残念なこと でした。

拳さん演じる帽子屋さんのある舞台は、広島県の呉海港近い寂れた商店街の一角です。上京した息子夫婦に帽子屋家業は見放されていても、周囲のものには帰ってきて跡を継いでくれる、などと強がりをいって、かつかつの生計を保っているのでした。

私はこれを見ながら、私の古い生家の隣にいた帽子屋の叔父さんと息子さんのことを思い出して、胸が痛くなりました。黒い学帽は戦前戦後の昭和30年代前半 頃までは、男の子にとってあこがれの帽子でした。私は4人兄弟でしたが、昔ながらの城下町で育ちました。小学校に、旧制中学に、新制高校に、大学にと、 入ったときには、いつも隣の帽子屋の叔父さんが作ってくれた学帽をかぶったものです。堅いつばと柔らかに波打つフェルトの黒い丸帽ですが、大学生になると てっぺんが隅丸の菱形になるのです(兄が被っていた早稲田の角帽はとんがっていました)。高校、大学の頃はみなバンカラ趣味で、てっぺんに靴墨を付けたり 靴を拭ったりして汚すのが普通でした。

叔父さんはガラス越しに見本の帽子の奥で、白くて長い顔に笑みを浮かべて、いつもミシンを踏んで いました。戦前の昔、結婚して千葉県の船橋海岸に住んでいた叔父さんを、私たち小学生の兄弟で訪ねて、荒れる海と波の音に恐ろしさを感じたものです。海な し県で生まれ、この時初めて私は海を見、静かになった海で川と違って浮く実感も確かめたのです。叔父さんは、赤ちゃんを抱えたこれまた優しいおばさんと歓 迎してくれました。祖父が家作をもっていましたので、祖父が溺愛していた妹の子である叔父さんを、隣家に住まわせたのだと思います。その時には叔父さん は、もう一人前の帽子職人になっていたのでしょう。

お正月にははずかしそうな顔をしながら、4人の私ども腕白坊主に半紙で包んだお年玉 を配ってくれました。ミシンを踏む姿は同じでしたが、いつの間にやら黒帽の山は見えなくなり、黄色い安全帽や野球帽になっていました。私がたまに実家に戻 ると、すっかり大きくなった長男と親子してミシンを踏んでいる姿を、見かけました。
そのうちに叔母が亡くなり、叔父も病没して、ぼんやりしたと ころがある従弟一人遺されました。帽子以外作ったことのない気の優しい男でした。嫁の来てがなかったのか、独身でした。ある日、実兄からの電話で、この従 弟が自殺した、ということを知ったのです。呆然としました。帽子屋の先々のことを悲観したとも、悪い仲間に誘われて相場の深間にはまったとも聞きました が、よくわかりません。いずれにしても、人生に絶望して闇の世を見限ったのでしょう。優しかった隣の帽子屋さん一家はこうして消えてしまいました。

ドラマの緒形拳さん演じる帽子屋さんは、制服制帽の多い呉地方特有の風土に救われますが、さして特色のない地方の帽子屋さんは、どうしているのでしょうか。老いも悲しいことですが、古き良き生業が崩れ行く悲痛さも胸をむしります。