伊藤幸郎君は、上野駅近くの砂糖問屋の家に昭和8年に生まれ、青山学院付属から、日比谷高校、東大と画に描いたようなコースを歩んで来ました。ですか ら、埼玉県の川越生まれで、高校で初めて東京に出て、渋谷の慈恵会医科大学付属高校に行った田舎ものの私から見ると、いかにも都会型の、しかし図太さもあ る俊才でした。茫洋として少し影のある笑顔に、張りのあるバリトンの声が同居していて、伊藤君の魅力になっていました。大学2年の秋に彼と出会い、なにか と互いをからかいながら、親友になっていました。

伊藤君だけでなく、教養学科の第4期に入った同期生は全部で7人いましたが、たいへん 仲がよかった思います。田中健治(名古屋大名誉教授)、武富保(信州大名誉教授)、秦葭哉(杏林大名誉教授)、井口道生(米国アルゴンヌ原子力研部長)、 佐竹誠也(武蔵工大名誉教授)、美川淳而(九州芸工大名誉教授)、それに紅一点の井本(梅田)亮子嬢、それに私でした。みな一種の稚気のある仲間で、つい 最近まで渋谷に遺っていた名曲喫茶のライオンに出かけては、和気藹々と談論風発、楽しい学生生活を送ったものです。玉虫文一先生や木村雄吉先生のゼミは全 員がとり、三枝博音先生や矢島祐利先生の対照的な科学哲学・科学史の講義を受け、フランスやアメリカから戻ってこられた若手の木村陽二郎・大森荘蔵先生の ゼミに興奮したものです。

やがて、伊藤と秦の両君が医学に志望を定め、ジャーナリズム志望の私を除いて、みな生物や物理や建築の大学院 など研究畑に散っていきました。伊藤君は大森荘蔵先生の指導で卒論を纏めていました。したがって大森哲学の洗礼を受けた学生の第1号、といえるかもしれま せん。伊藤君と小生は留年組で、卒業は形式的に第5期になったので、二人の間では4・5期だ、といっております。

卒業後もわれわれはよ く集まりました。1つは駒場科学論グループと称し、小生担当の月刊科学雑誌『科学読売』誌上で、グループ書評という形で、毎月1冊の本を取り上げては、合 評を載せることをやったからです。これは2、3年続きました。その後、小生の転社先の雑誌『自然』では、田中君ともどもミニスコープ欄の常連筆者になって くれました。

その間も、特異な生命論思想家L・L・ホワイトを中心とする木村雄吉先生の読書会は、先生の新任先の医科研で、やがて先生 の居られる本郷の求道学舎で続けられました。昭和40年、先生ご退官を機に、「白雄会」と名付けて再出発し、平成元年お亡くなりになる時までこの会は続き ました。この同人が伊藤君、田中君、秦君、武富君、小生に、二期上の束ね役の永井克孝(東大名誉教授)さんでした。ときに伊東俊太郎先生も出席されまし た。じつは伊藤君が北九州に赴任するきっかけも、同大副学長から相談を受けた木村雄吉先生のご配慮によるものでした。

酒好きな伊藤君で したから、まさかその彼が運転免許証をとるとはだれも考えなかったのですが、いつのまにやらスピード好きなドライバーになっていました。木村先生が北九州 に招かれて彼の車に乗せられたとき、車内の手すりにしがみついて、「伊藤君、大丈夫か」と繰り返していたエピソードもあります。小生の焼き物好きを知っ て、遠賀川上流の緑釉が見事な上野焼の窯元に何度か行きましたし、有田や唐津、平戸など二人でドライブ旅行もしました。

伊藤君の半生を語るにはとても誌面の余裕も時間もありません。そこで晩年、奥様の伊藤季実さんともども吟行人生も送っていた俳句のいくつかを、紹介いたします。これは小生の依頼で、奥様が選ばれた20句(いずれも特選・本選句とのこと)からのものです。

満月へ吸ひ込まれけり象の列

スリランカ吟行の特選句で、このとき季美さんの特選句が「椰子の実へストロー二本夏帽子」でした。あどけなさもある奥様と、いつも遠くを見ていた伊藤君の息のあった2句です。少年時代と晩年の心境を吟じたもの2句があります。

大店の子の着ぶくれて一人ぼち
六十年遊び呆けし花野かな

今春(2008年)、『炎環』20周年特集で800句中優秀賞に選ばれたのが、

人日や象高々と水吹きし

でした。5, 6年前でしょうか、伊藤君夫妻が鎌倉に吟行に来られ、昼飯を小料理屋でご一緒したのが、お二人揃ってお見受けした最後でした。昨年春、木村雄吉先生の眠る 我孫子に墓参して、こころなしか弱った感じの、背が丸くなった伊藤君と別れたときの後ろ姿を思い出します。

今夏、出羽三山に遊び「光明院仁誉幸道居士」になった君を偲んで。

友逝きて弥陀の湿原鬼薊(あざみ)