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伊藤幸郎君は北九州市に設立された産業医科大学で、1年次から6年次まで全医学生の必修科目になっている医学概論の創設教官でした。東京都の青山病院内 科科長から、昭和56年に赴任したのですが、5年後教授に昇進してからの15年間、伊藤君はもてる能力を生かして、北九州の一角、医生の丘に壮大な試みの 医学教育実践場を設けたのでした。

医学概論といっても、それは単なる一般教養としての医学入門講義ではなかったのです。総合人間学を目 指した独特の教科で、とかくエリ-ト意識の強い医学系の学生たちに、全学年を通じて、生・老・病・死の人間の実相を直視させることを意図していました。こ のことは前任者の計画でもあったのでしょうが、伊藤君の企画は、もっと徹底しておりました。入学したての医学生全員を、まず重傷心身障害児施設などに2泊 3日放り込んで、治療困難な厳しい医療現場を早期体験させたのです。手荒いカリキュラムの洗礼です。これはいまやこの大学の特色になっているようです。こ うして6年間、生命倫理・医学史、東洋医学、医療面接実習、臨床死生学・倫理学などを学ばせるのです。

私は、何度か招かれて、「アインシュタインの死生観」「三木成夫から学ぶ内蔵感覚」などの話をし、玄界灘の大皿の刺身をご馳走になりながら、彼の充実した日々を喜んでいました。

この伊藤君が、平成2年脳死臨調(臨時脳死及び臓器移植調査会)参与となり、委員として活躍されました。彼はもちろん医者でしたが、脳死移植推進派の医者 たちに与せず、「脳死は人の死である」ことに反対する梅原猛委員らの少数意見にも耳を傾けながら、今の時期には最適な「新臓器移植法」(1997年施行) に辿り着くのに尽力したのでした。

伊藤君の口癖は、脳死を人の死とすることへ抵抗感は一人称の死(私の死)や二人称の死( 愛する家族の死)で起こるので、これは避けがたいとしていました。しかし脳全体が壊死に陥った場合でも内部意識があるという議論には、科学的根拠から与し ませんでした。三人称の死にはそれなりの科学的な合理性が用意されているからです。

結局、「新臓器移植法」では、脳死に陥った本人および家族から進んで臓器提供の意志を文書で示された場合のみ、脳死判定をもって死とすることが決まったわけです。

伊藤君は、「脳死をもって死とするのには、まだ社会的合意が形成されていない日本では、ベターの選択であった」といっておりましたが、その通りであろうと思います。