2008年6月11日  すごいな、三国志のなかの空中回廊
三国志展の券を大阪の知人が2枚送ってくれました。
三国志はもちろん 大好きです。劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを結ぶ桃園の誓いやら、諸葛孔明が劉備の三顧の礼に応えるあの草深い草廬の出来事やら、赤壁や五丈原の戦いな ど、吉川英治以来の刷り込みが、にわかにフラッシュバックしてきます。おまけに、中国から持ってきた一級文物50数点を含む展示だ、というではありません か。
しかし場所が八王子のはずれにある東京富士美術館と聞いては、躊躇もしたくなります。鎌倉の家からですと、バスでJR藤沢に出て、2つ先 の茅ヶ崎駅からJR相模線で橋本経由ですから、八王子駅まで2時間近くかかります。なにしろ相模線は、昔ゴルフに凝っていた国立時代に、JR南武線から乗 り継いで茅ヶ崎に出たことが1回あるだけです。どうしようかと思って、好奇心旺盛な家内に振ったら、「行く」というのです。
そんな思いをして、行ってじつによかった。成果あり、デス。
家内は、長坂坡の戦いで、猛将の趙雲が単騎で劉備の赤ちゃん(阿斗)を救い出し、懐に入れて曹操軍の大将張郃の追撃を振り切る場面が気に入ったらしく、 木彫や陶壁図を見入っていました。私も三国鼎立時代などの理解が一段と深まったのはもちろんですが、なんといっても大きいのは、これで曹操の再評価が私に とってはっきりした感じです。
魏の曹操は悪玉で、呉の孫権も冷血で、などと、蜀の劉備主従を贔屓するのが通例ですが、何十年も前に、有名な魯 迅の講演「魏晋の気風…」を読んでから、曹操への興味が増していました。(あとで調べましたら、これは1927年の学術講演でフルタイトルは、「魏晋の気 風および文章と薬および酒の関係」で、竹内好訳『魯迅評論集』岩波新書にあるものです。面白いものです)
曹操とその子曹丕(漢朝を奪って帝位 に。孝文帝)は、ともに文を好んだ通脱・剛毅な人物でした。儒者でなく方士(方術・仙術をよくする道士)や文士を多く集めていたというのですから、時代も 国も違いますが、魔術帝国を築こうとしたハプスブルク皇帝ルドルフ2世を思い出します。しかしルドルフは狂気半分でしたが、曹操・曹丕には魯迅のいう清峻 な冷徹さはあっても、狂気はないようです。
のちに華岡青洲が先師と仰いだ名医華陀(麻酔薬・麻沸散を考案)を殺した曹操は、自らは大酒飲みであっても、禁酒令を出す冷静さがあったからです。「屯田制」で食糧確保と自衛力を高め、「求才令」で才能あるものを抜擢したのも曹操でした。

今回の展示考古学資料で、とくに面白かったのが、曹操が建てた銅雀3台といわれる壮大な高台建築群関係のものです。
やがて曹魏王朝は洛陽を都に定めるのですが、まず曹操が都城として開いたのが鄴城(ぎょうじょう)で、その都城計画は以後の都城計画のモデルになったよ うです。とくに北城の西城壁にある高台3つ、高さ24㍍の銅雀台、19.6㍍の金虎台と氷井台は、アーチ橋のような空中「閣道」でつながっていたというの です。ここで宴が開かれ、中国文学史上、最初の文学者の集まりがあった、と報告されています。敵に襲われても、アーチを切り離せば、独立の要塞に化しま す。
この銅雀3台は、紀元後210年から213年にかけて造られたこともわかっています。「魏志倭人伝」は、西晋時代に書かれた正史『三国 志』にある日本についての最初の記述ですが、女王卑弥呼の使者が洛陽に至って、金印を授けられるのは、このわずか25、6年後のことです。辺境の日本と中 国の文明のレベル差は驚くほど大きい、と自覚しました。
銅雀台の基礎4隅を飾った長さ2㍍もある重そうな青石の竜首が1つ、飾られていました。頭をもたげ、2つの角と耳、口元から8本の牙を覗かせていて、いかにも恐ろしげでした。

金子務記