2008年5月27日  内田昇三先生は1994年、93歳で亡くなった生物学者です。晩年の20年、短歌・俳句・詩を作り、没後、遺稿が『詩歌集 城ヶ島』として2年ほど前に私家版として出されました。5月下旬の薄曇りの1日、私は機会を得て城ヶ島に遊びました。先生は、神田生まれで、3歳のとき母を失い、5歳上の兄とともに、9年間、緑と海の城ヶ島で育った方でした。それこそ城ヶ島生活で人生の大転機を迎えたという、詩聖北原白秋の遺跡のいくつかを見て回りながら、私は、高校時代の恩師の穏やかな笑顔と詩歌の数々を思い出していたのです。

「贈られし小函の中におさめなん九十二歳の我が霊を」

教え子の山本陽子さんから、誕生祝いに黒い石の小函をもらったときの艶やかな歌です。質朴な先生の風貌も伺われます。
先生の詩歌には、城ヶ島時代の思い出が通低音となって共鳴しています。都会生活のなかで、絶えず島の生活が甦ってくるようです。なにしろ、四年生まで一教室一先生の城ヶ島分教場(いまは海の資料館)で学び、五,六学年を向こう岸に渡船して三崎小学校に通ったのです。

「土手に上れば眼下に見えし太平洋その家に我は育ちたりけり」
「その上の城ヶ島の原にいる如し眼つぶれば北風の声」
「祖母は浅草母は銀座の生まれなり自分は神田っ子なり」
「笹原を歩けば飛び出す松虫をとらえし我は島の子なりけり」

先生は1913年、大正2年に離島して東京に出、開成中学、一高、東大動物学科と秀才コースを進み、教授生活に入ります。旧制四高(金沢)、成城高校、東京薬科大、東京慈恵会医科大予科、麻布獣医大、東京女子医大などです。私は戦後の学制改革混乱期に新制慈恵高校一期生になり、そこで先生に生物学を習ったのです。

先生の離島と入れ替わるように、白秋は一家を挙げて三崎に渡り、やがて舟歌「城ヶ島の雨」を作詞して、詩人白秋の名が世に知られることになります。いまその碑は城ヶ島大橋の下の荒磯にあり、その上の白秋記念館で、梁田貞作曲の、奥田良三がテノールで歌うテープを聴かせてもらいました。9ヶ月の三崎生活でした。妻俊子と寄寓した見桃寺に、死の前年、1941年、昭和16年に自筆歌碑を建て、いまに遺っています。黒い秩父産の自然石に、「寂しさに秋成が書を読みさして庭に出でたり白菊の花」です。『雨月物語』の「菊花の約」にそぞろ哀れを催して詠んだとされています。

しかし57歳で死ぬ白秋に比べ、先生が93年間の生涯に抱きつづけた「淋しさ」も格別なものです。わずか27歳で逝った美人の母の面影を追い続けていたようです。

「浮世絵の明治のひとは浴衣きて石をみて居り母にあらずや」

もそうですが、『詩歌集 城ヶ島』の巻頭に置かれた「奈良三月堂月光菩薩礼讃」は、月光菩薩を母に見立てた母恋の歌のように思います。

「愛さんとすれどなし得ぬ我なりと月光菩薩は悲しみにけり」
「人の世の悲しきさだめそのままに月光はただ立ちつくすなり」
「月光の淋しき顔をみてあれば我も淋しき秋の一日」

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金子務記