伏見康治先生が亡くなった。98歳である。あとわずかで白寿の誕生日を迎えるところであった。東大物理学科で学び、阪大、名古屋大教授を経て、日本学術会議議長も務めた。旧制東京高校時代以来、同級のすでに亡き渡辺慧先生と親交を結んでいた。私は読売新聞、中央公論社に在籍した科学ジャーリズム時代、この両先生にはいろいろ世話になった。

  伏見先生はおおらかな大人の風格があり、一連のガモフの普及物理学書トムキンスものの翻訳(白揚社)も手がける自在さがあった。奥様と共同の折り紙の世界も奥行きの深いものだった。私どもが立ち上げた形の文化会発起会でも、記念講演をお願いし、学会機関誌『形の文化誌』(工作舎)にご寄稿(家紋について、等)もいただいた。本会名誉会員でもある。渡辺先生もユーモアを解する自在な才人であり、物理学界きっての論客でもあった。武谷三男氏らのセクト主義を批判して渡米、国際的に科学と哲学に橋架ける分野、とくに時間論で一境域を開いていた。愛称「ライオン」と呼んでいたドイツ留学時代以来の愛妻と、時間論の名著(自然選書)も遺されている。

  上智大の柳瀬睦男氏も東大時代の同期であったと思うが、この三人が中心になって日本時間学会が生まれ、そのメンバーに若手の俊才村上陽一郎氏も加わって、私の企画で『自然』誌上で時間論の連載をし、本にも纏めた(自然選書)ことを思い出す。

  ある時『自然』誌上で、伏見・渡辺両先生に長い対談をやっていただいた。場所は紀尾井町の福田屋であった。お二人が、物理用語の問題になったとき、伏見先生はスペクトルの訳語に「光譜」を提案していたが普及しなかったのを残念がられていた。私もいまになっても「光譜」とはうまい訳語であり、せめて中国人に普及を願いたいと思っている。

  渡辺先生は、旋回性を表す用語、「カイラリティ」(chirality)の最初の提案者であったという話をされた。パリティ保存の問題で、右ねじとか左ねじとかいって、旋回性を一言でうまく表現できていなかった時代である。アメリカ物理学会の機関誌に投稿したら、その編集長がハウトスミットというオランダ系の物理学者で、アジア人の渡辺先生がギリシャ語由来の新語を提案したって、そんなものなど受け入れられるか、という人種差別丸出しの態度で握りつぶされた、苦い思い出を語っていた。

  この渡辺先生が亡くなられて久しい。いま伏見先生のお通夜(2008年5月11日)が行われた横浜・妙蓮寺に出かけて、満面笑みをたたえたお顔のアップを仰ぎ見ながら、偉大な先人お二人の交友を思いだし、その一面を綴った次第である。金子務記。