2008年4月20日 昨日、京都神光院に出かけました。前々から挨拶したいと思っていた、懐かしいという感じの女性がいたからです。
ここは、東寺・仁和寺と並ぶ空海ゆかりの名刹です。京都駅前から9番のバスに乗り、40分以上もかかって、上賀茂神社の先の神光院前で降りました。ここにじつは太田垣蓮月尼という女傑が、幕末から明治にかけて住んでいたのです。
  蓮月尼ゆかりの茶室も遺っています。蓮月焼といって、柔らかな、しかし楽よりは重い黄白色の陶肌に棒釘で自作の歌を彫りつけた焼き物や多くの歌で知られ、また、細密で豪放な面も併せ持つ絵描きの富岡鉄斎を少年時代から育てたことでも知られています。私も竹節型の蓮月自作の香合を1つもっていて、それには、「この君はめでたき節を重ねつつ、末の世長きためし也けり」と歌を彫りつけてあり、明治の新しい世を迎えた時の作品です。
  突然の訪問でしたが、忙しそうにしていた神光院の住職さんが床の間の掛け軸を見せてくださいました。蓮月77歳の時の松柏画で「やまさとは」の歌を自賛した軸です。
  ここから少し離れた西方寺裏山の小谷墓地に、蓮月尼の墓がありました。自然石に「太田垣蓮月墓」と深く刻まれていました。今時の機械彫りの浅い彫りではなく、優に深さ1cm近くもあるしっかりした端正な彫りです。いかにも蓮月好みの棒釘字の隷書だとおもいますが、同じ墓地にある世間的にはこちらの方が有名な魯山人の墓よりも、私にはずっと奥ゆかしく好ましく思われました。
  魯山人先生は型破りの人ですから期待していたのですが、「北大路家代々墓」の四角い墓石側面に、型どおりに戒名が「妙法禮祥院高徳魯山居士」と刻まれていました。赤御影の石でしょうか、彫りの縁が風雪で荒れているのも気になりました。
  この間、墓参りの女性数人にお会いしただけの、まだ山桜があちこちで散り終わらぬ、行く春を惜しむような山里でした。