笑談四人組:シーボルト展を観る。 ルートヴィヒ二世王・鴎外と交差する「狂気」って?

シーボルト展を友人の笑談四人組で観に行きました。東京はもう終わりになっても、来年10月まで、長崎、名古屋、大阪の各会場で開くそうです。連れはドイツ文学とユング研究の松代洋一君、植物病理学者で農学博士の濱屋悦次君、執筆・翻訳・編集にイベント・プロジュースも手がける寺岡襄君と私、金子務です。

私以外のメンバーを手短に紹介すれば、―

濱屋君は大学入学以来の友で、ひ弱な風貌ながら何ごとにも凝る名人。自宅の庭にキウイの苗木を植え、高さ14メートル余りに育て、三階建住宅の屋上に棚を設け、東京で一番高いキウイ棚に1000個以上も実らせたり、東京産トチ餅作りではNHKTVに出演、17世紀の英国人虜囚記『セイロン島誌』の訳本も東洋文庫に収めている御仁で、小生のPCの師匠です。
松代君と寺岡君は私の中央公論時代からの友で学識高い編集者出身、正真正銘のエッセイストです。それぞれお得意のドイツ語とフランス語を武器に、松代君は数々のユングの訳本でも知られ、鋭い西欧型知性と落語趣味とを両立させているし、寺岡君は西欧古典絵本の復刻や文化人類学系の書物の翻訳、美術・文学系のイベント・プロデュースも手がけ、書もたしなむという風雅の主です(ことによったら小生と同じ教養学科出身かナ?)。

シーボルトの日本博物館構想と仏作家ドーデー
私は、50年以上も連れ添った妻をこの9月に失ったばかりで、すっかり落ち込んでいましたので、気分転換になりそうな気の置けない友垣の誘いに飛びついたのです。
ただしシーボルトのことは、正直言って、新しいことが何かあるのかな、ぐらいの期待しかなかったのです。
というのも、もう20数年も前に、日蘭修好380周年記念事業の一環で、オランダ博が大阪南部の堺市で開かれるのに連動して、私が中心になって大阪府大で科学技術関連事業の講演会やシンポを企画したさい、オランダ・ライデンのコレクションや長崎の関係先などずいぶん内外にわたって調べ、あちこちに書いた覚えがあるものですから。

そういったわけで、展覧会の標題が「よみがえれ! シーボルトの日本博物館」というちょっとヘンテコな企画(失礼! あまり客を呼べそうな標題じゃないもんで)であることも、会場に入ってから知ったのでした。

じつはこの標題を見た時、それまですっかりしびれていた私の頭をよぎったのは、昔、フランスの短編で読んだ、晩年のシーボルト像でした。
山をなす自分の集めた日本資料の品々につぶされそうになっても、白く長いあごひげと、引きずるほどの外套姿の「シンドバッド老」は、「気の弱さと図々しさを同時に示す外国人らしい様子」で、頑固という狂気を貫くのでした。

あとで自分の書庫を探したら、あの短編は、ドーデー作『月曜物語』の一篇「盲目の皇帝」でした。すっかり忘れていましたが、赤線をあちこちに引いてありました。これも狂気じみておりますが、「」はそこからの引用です。パリの酒場で知り合ったドーデーは、何度もミュンヘンの王宮の庭にある陳列室の一室で老シーボルトに会い、最後の死まで見守っていたのです。

そんなわけで、次第に高まる期待を胸に、江戸東京博物館1階の展覧会場で海外に散在するコレクションや文書資料を見ていく内に、私にビビッと来るものがあったのです。
あー、ナントナント、シーボルトが、あのバイエルン国王ルートヴィッヒⅡ世と日本博物館構想で折衝していたのです。知らなかったなァ。

ヴィスコンティ監督の「ルートヴィッヒ」の湖沼死事件を想い出しながら、思わず寺岡君を振り返って、「鴎外のルートヴィッヒ紀行はどの作品にありましたっけ?」と聞きました。
なにしろ寺岡君は昔、『鴎外東西紀行』の一書を京都書院から出していて、鴎外がよく遊んだ因縁のシュタルンベルグ湖で、夏の名残を惜しみつつ1日、彷徨してきたというからです。鴎外の『独逸日記』と小説『うたかたの記』に出てくることは、寺岡君の書を繰っていってすぐ分かりました。改めてその『うたかたの記』を読んでみました。いかにも名文調の巧みな鴎外作品で、豊かな作家としての資質を十分に見せてくれている、謎の二重溺死事件です。ルートヴィッヒ王お抱え絵師の娘マリーが、花売り娘として登場するあたり、たまらなく美しいなァ。王とグッデン医師の溺死する同時刻に同じ湖の別の場所でこのマリーも溺死するというフィクションです。

風雅氏・寺岡君からのメールと感想
さてその寺岡君から、こうメールが来ました。許可を得た上で全文載せておきます。

金子務さま:
先日は、久しぶりにお会いし、比較的元気なお姿に接し、安心いたしました。
さて、あのとき、ルートヴィッヒ2世を扱った鴎外の作品名を失念しておりましたが、「舞姫」にすぐ続いて書かれた「うたかたの記」であることを思い出しましたので、とりあえずお知らせします。
もっとも、金子さんのことですから、とっくにお調べになっているかもしれませんね。

はやく落ち着いた日常の日々を取り戻されんことをお祈りしつつ……

(この後、添付で詳しい感想を送ってもらいました。以下寺岡君の感想メール)

鴎外は、「うたかたの記」で、ルートヴィッヒ、マリー、日本人画家・巨勢の三者三様の〝狂気〟をからませながらこの悲劇作品を仕上げています。美しい古文体と劇的な結末にあらためて新鮮な思いをしております。
ただしこの作品は、発表当初から今日まで、文章の美しさは褒められても、内容的にはあまり評価は高くないように思います。気難し屋の石橋忍月も、その文章を「賞賛するといへども、それは唯其外形についていふのみ、其内面の果して健全にして不朽幽玄の意思精神なるや否やは別問題」と手きびしい。

留学先を、ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヒェン、ベルリンとたどった鴎外にとって、とりわけライプツィヒは、軍務から離れて、いちばん自由に羽を伸ばした土地であり、また美術・文芸の街としてヨーロッパの世紀末の時代の雰囲気を映した土地でもありました。

ミュンヒェンについたその晩から謝肉祭の仮面舞踏の渦に巻き込まれ、若い女性に誘われるまま仮面をつけて踊り、酒を飲んだのち女の家まで送っていったほどで、その後も留学生仲間たちと、戯園や酒家や景勝の地でさまざまに「興を尽くし」たことが、「独逸日記」のそこここに書かれています。とくにルートヴィッヒが溺死したヴルム湖(シュタルンベルグ湖)には9回ほど遊びに行き、一週間以上滞在したこともあるほどです。
この間お送りしたコピーにあるとおり、明治18年6月14日の記述にあるとおり、王と侍医グッデンの溺死は、鴎外にとって衝撃的な事件だったことは明らかです。10日ほどたってから友人たちと、ヴルム湖へ国王とグッデンの遺跡を弔しに出かけています。
鴎外は、その後、ルートヴィッヒについてあまり語っていないようですが、全集の38巻に、どこかの記者が独逸三部作について聞き書きした記事の中で、ドイツ滞在中にレクラム版の独逸人の書いた小説でこの事件を扱ったものを読んだが、あまりにも拙劣なものだったので、遠慮なく参考にした、という意味のことを語っています。

それから、ルートヴィッヒについて扱ったものに、ヴェルレーヌやアポリネールやゲオルゲの詩があり、あるいはクラウス・マン(トーマスの長男)の小説などがあるのはご存知かと思いますが、日本では久生十蘭や渋沢竜彦のもののほかに、円地文子が昭和49年に「新うたかたの記」という作品があることをつい最近知りました(小松伸六『ミュンへン物語』)。

私としては、鴎外が、帰朝間もない明治23年にこの作品を書いたということに、とくに関心があります。気に沿わない結婚と離婚、陸軍省内部の複雑な雰囲気、といった公私両面で煩雑多忙のなかで執筆したということに感心しています。役所を辞めて自由な文人生活に入りたいと思いつめていたときでもあったはずで、鴎外自身が世紀末のヨーロッパの〝狂気〟をそのまま持続させていたようにも思うからです。それは、江戸時代末からの漢詩人で、江戸の風流をこよなく愛し、維新後は、新時代から韜晦して生きていた晩年の大沼枕山に入門を申し入れて、老齢を理由に断られた、という永井荷風の伝聞(『下谷叢話』)からもうかがえます。
私は、そのころの、迷い、苦しみつつもなお創作にいそしんだ鴎外が、とてもいとおしく、好きなのです。

(以上、とりとめもありませんでした。――なお、拙著『鴎外東西紀行』はお贈りしませんでしたでしょうか? 中身はともかく、ミュンヒエンのヴルム湖の風景の写真なども載っています。もし、お持ちでなかったら送らせていただきますが……)

さすが寺岡君だ。私が知りたいことを簡潔に伝えてくれています。世紀末の狂気が、シーボルトと国王と鴎外に共通していたのでしょう。「あのご本は前に頂いていて、先ほど読んでいました。湖中に建つ十字架も印象的です」と、返信しました。

シーボルトとルートヴィッヒの出会いと顛末
シーボルトが会った時のルートヴィッヒ二世王は、まだ王位に就いたばかりの夢見る若き王でした。1864年9月8日のことだろうと、カタログでミュンヘン五大陸博物館の学芸員氏が書いています。とすると、国王19歳、シーボルトは68歳で死の7ヶ月前です。

シーボルトは、もう30年ほど前の1835年に、父王ルードウィッヒ一世宛書簡で、民族誌博物館のコレクションと展示の重要性を訴えてきたのですから、この計画には年季が入っています。、改めてその跡継ぎの王にそのことを述べ、シーボルトの日本コレクション購入と博物館設立を持ちかけたのです。
仲介役はミュンヘンで民族誌コレクションの学芸員になっていたモーリッツ・ワーグナー(1813-87)(あの国王が愛したリヒャルト・ワーグナーとは別人)のようです。

政治よりも文化を愛した国王は色よい返事をし、購入提言を裁可さえしたので、シーボルトは故郷のヴュルツブルクにあった日本コレクションを急ぎ梱包して、ミュンヘンに送ります。川原慶賀の画帳も含むその数、54箱だそうです。国王の購入裁可は、王国議会の承認があって初めて現実になるのです。議員たちにコレクションのすばらしさを直接観てもらって、議会承認を勝ち取とりたいという、願いを込めた布石でした。

ところが、トコロガです。その年、プロシアとオーストリア両国が戦争に突入、ルートヴィッヒ二世のバイエルン王国は、オーストリア側について、厖大な戦費を負担するハメになったのです。かくして、あえなく、日本コレクション購入は王国議会によって否決、落胆したシーボルトはガンに蝕まれていたうえに大きく体調を崩して、亡くなってしまうのです。

その後もシーボルトの遺族とバイエルン政府の交渉は続き、1874年10月10日、ルートヴィッヒ二世王の同意と議会承認を経て、5万グルデンで購入されます。それは、国王がプロイセン国王をドイツ皇帝として承認することで、敗戦国フランスから多額の賠償金を得たためだそうです。

学者肌の濱屋君がカタログを丹念に読んでから、シーボルトの日本博物館構想は来日初期にもうあったことをメールで伝えてきました。以下がそのメールです。

凝り屋・濱屋君からのメール
医師として、あるいは先進的博物学者として、日本の近代化に多大の影響を及ぼした人物ですね。それらについては、一応の知識を持っていたつもりでしたが、彼が滞日中に集めた資料の実物を見るのは、今回の展示品が初めてです。

博物、地理、民俗、美術、工芸、文学などなど、日本に関するありとあらゆる分野の資料が集められていましたね。とにかく物凄い数と言うか、厖大な量です。しかも、それら全てが極めて良質な品々、宝の山と言っても過言ではありません。唯々、感嘆するばかりです。だが見ているうちに、このコレクションにオランダ東インド政庁が組織として関与している様子はないし、シーボルト一人がいったい何のために? どうやって? と疑問が湧いて来ました。

その疑問を解く鍵がカタログに示されていました。
彼の第1回の来日は、江戸時代の鎖国下1823-1830年の約6年間で、医学関係の活動による人脈拡大とともに、多岐に亘る手段を講じ、至極貪欲に資料を収集したのです。2回目の来日は開国後の1859-1862年で、第1回を補完する形で収集を行っています。そして、それらのコレクションは、ヨーロッパ各地で開催された日本博物館において、展示公開されていったのです。
そのヨーロッパにおける日本博物館の設立こそ、シーボルトが生涯を賭けた夢であり、資料収集の原動力にもなったのでしょう。
驚いたことに、その「日本博物館構想」は彼の日本着任数ヶ月後には既に確立していたようです。それを示す叔父書簡が残されています。当時の彼は、20歳台後半の若さで、それこそガムシャラに事を運んだに違いありません。有名なシーボルト事件(地図流出事件)も起こるべくして起きた事件ですね。

とは言うものの、そのコレクションは、当時の日本の姿とともに、当時の欧米人が日本の何に興味を抱いていたかを私達に示してくれる貴重な存在になっていると思います。

ちなみに、叔父アダム・エリアス・フォン・シーボルト Adam Elias von Siebold(1775-1828)宛の書簡は、日本に着いた翌年(1824年)に書かれ、カタログによると「日本について広汎に説いた仕事を、日本博物館を実現するまでは、日本を離れるつもりはありません。日本博物館が実現すれば、私達一族の名をヨーロッパに高めることになると信じています」と述べられているそうですが、変な訳だし、日付も不明なので、原典を見たいと思いますが、術がありません(カタログの205頁参照)。

最後に、展覧会で着想を得て書いたという律儀な松代君のメールを、これも全文載せておきます。ここしばらく松代君は入れ墨話に凝っているようで。これも狂気の一種かナ。

独逸屋・松代君の添付メール <刺青とシーボルト>

金子務様

江戸東京博は楽しかったです。ドイツ、バイエルンにおけるシーボルトと森鴎外、ルートヴィヒ2世に就いては寺岡さんが詳しいでしょうから、私は例の刺青の話を添付しました。
また何かあったら誘って下さい。こちらからも声を掛けさせて頂きます。大いに歩き回りましょう。

松代洋一

(以下、主文)
この夏はスポーツジムを休会にして、横浜元町公園プールに通った。タモの大木に囲まれた観覧席を備える50メートルプールで、水面には木洩れ日も落ち葉も揺れている。

二十数年ぶりに訪れて久しぶりに眼にしたのは刺青で、父親の背中の刺青に落ち葉を貼り付けて戯れている子供などもいて、何となくほほえましい。さる友人にその話をしたら、海外では入れ墨男ほど近づきやすいものはない、肩を叩いて「グレート!」と言えばたちまち友達になれると教えてくれた。

日本だって「魏志倭人伝」の昔から風俗としての文身はあったし、江戸時代の太平の逸民にとって刺青なんぞはあれこれの稽古事と何の変わりもなかっただろう。職人たちにとっても自慢の種の一つだったし、その名残か今でも浅草辺の町娘の間で刺青は珍しくないと聞いている。

それが良俗を害する悪習とされるようになったのは、どうやら大和朝廷が成立した近畿に始まったらしい。シナで入れ墨が五刑の一つとして行われたことが「書経」などで伝わったからだろう。ここで、一般習俗にすぎなかった入れ墨は犯罪と風俗壊乱のしるしとなった。琉球や蝦夷地ではそんな変化は起こっていない。

京都市立図書館の館長だった友人の話では、近畿といってもとりわけ大阪が際だって入れ墨を嫌うそうだ。ジムで知り合った横浜市の助役だった人も、地方公務員に刺青申告をさせるなんぞは大阪ぐらいでしょうと言っていた。もっともジムはどこでも刺青の人は入会お断りが普通だと思う。

ここまで書いたところで、金子務さんに率いられて何人かでシーボルト展を観た。あったあった! シーボルトの描かせた「人物画帳」にも入れ墨男の図がちゃんと収められている。シーボルトが刺青をどう思ったかは知らないが、イザベラ・バードの「日本奥地紀行」には、明治政府が伝統習俗である入れ墨を禁止したのを嘆いたアイヌたちが、二人にその解除を取りなしてくれるよう頼んだという話が記されているから、シーボルトもバードも衛生上の疑念は別として、何ら偏見は持っていなかったと見るべきだろう。

一方、国文学者の松田修氏に言わせると、九紋龍史進を始めとする「水滸伝」の好漢たちのそれがよく示しているように、刺青の意味も魅力もまさしく異端と反逆のシンボルであるところにある、一般に広く受け入れられ、もはや反権力、反体制でなくなるようなことがあれば、それこそ日本の刺青の異端的伝統を損なう絶望的情況なのだそうだ。その松田氏、私に向かって「あなたは肌がきれいだから入れ墨するとよく似合いますよ、おほほほほ!」「(@_@) (@_@) H∀∀∀∀?」(以上)

松代洋一君は確かに色白だ。昔々、人類学者の香原志勢氏に聞いたところでは、入れ墨は衣服の一種だそうな。洗濯しなくてすむ密着衣服だとすれば、古代からの必需品かもネ。