《あのお腹のふくらみは何だ?》

カラヴァッジョの「聖ヨハネの斬首」を、マルタ島にある聖ヨハネ騎士団の教会で観たときもその鮮烈さがショックでしたが、今回もう八重桜の時期になった4月中旬、東京上野の国立西洋美術館で、世界初公開という「法悦のマグダラのマリア」を前にして、あまりにも妖美なマグダラのマリアの像に魅せられました。と同時に、「あのお腹のふくらみは何だ」と、同行のユング研究者である松代洋一君と二人で、首をかしげたものです。画面が暗く定かでなかったのですが、マリアの左下に頭蓋骨らしい像が見えました。画面前方の闇には十字架がわずかに浮かんでいて、上の方は赤みの差す空間になっています。買い求めたカタログにはお腹のふくらみについて何の言及もありません。ただ、向こう隣に並んでいた同じような図柄のマリア像ははっきり頭蓋骨を抱いていました。
 松代君は別れてから、すぐネットで調べたらしく、メールして来ました。「右下部分の鮮明な画像が見つかりました。やはり頭蓋骨の左側面でした。すると腹部のふくらみがなんなのか疑問になります。頭蓋二つはおかしい、と言って妊娠だとしたら、免罪を願い出る旅の土産にふさわしくないし、しかも相手はイエスと思われかねません。」と言ってきました。さらに「「私に触るな ノーリ・メ・タンゲレ」の言葉は、それまでは触っていたからだという説もありますから。謎は深まるばかりです。」と。
 映画にもなって物議を醸した『ダ・ヴィンチ・コード』は、このマグダラのマリアがイエスの子を産んで、カロリング王家の始祖につながるという大層なお話でしたが、イエス没後、マルセーユ近辺の沿岸に逃れてきたという話もありますし、ユダヤの地にとどまったとも言われます。私はガリラや湖近くで、白い円丘の形をしたマグダラのマリアの墓なるもの(乳首のような赤い突起が上に付いていましたッケ)を観たこともあります。
 そんなことを想い出しながら、松代君に【メール1】を出しました。

【メール1】 松代洋一さま カラヴァッジョはワイン・グラスに自分の顔を映し込んで描いたり、一種の謎かけを楽しむ画家ですね。ネットで見つけられた像はあの部分だけ増光処理をして見せてくれたもので、頭蓋骨であることを明確にはしてくれますが、実像であるはずがありません。構図から言ってもそんな不自然なものをそこにおいて描くはずもないでしょう。余計なものはみな黒の背景に塗り込めてしまうのが彼のやり方です。
 座椅子の黒い袖板に頭蓋骨を映すことによって、上着の下に文字通り肌身離さず隠し持つ丸いものを暗示しているのだと思います。マグダラのマリアは墓から消えて昇天するイエスを初めて証言した女性ですね。そして自分の髪でイエスの足を拭いた元娼婦でもあるとすると、この像はイエスと精神的に(ことによったら肉体的にも)一体となって法悦の境地にいるマリア、でしょう。
 もう一つ謎は、マリアの前方の闇に細めの十字架が浮かび、それにイエスをいたぶったらしいイバラの王冠(鋭い棘が7本ほど輪になった枝から出ています)が架かっていることです。頭蓋骨は肉体の残滓であり、それをマリアが隠し持っていて、イバラの冠を残して昇天したイエスの霊と昇天を暗示しているのでしょうか。その上方にやや赤みを帯びた円光が広がり、その縁にそって黒い像(人か天使か花弁か;花弁と見て天上の王冠という解説者もいましたが)が六つ七つ浮かんでいますが、それが天上界を表すのでしょう。
 お示しの、「私に触るな ノーリ・メ・タンゲレ」の言葉ですが、マグダラのマリアに対していった言葉ではないのでは。小生の記憶では、奇跡の治癒を願う病者たちに向けたものだったのではありませんか。
 以上、松代君のメールに触発されて、感想の一端を記しました。金子務

これに松代君から間もなく返事をもらいました。私の記憶違いを正してもらった上に、篤学の松代君らしいコメントが付いています。同君の許しを得て、そのまま引用しておきます。

【松代氏の返信】金子務様 「座椅子の黒い袖板に頭蓋骨を映すことによって、上着の下に文字通り肌身離さず隠し持つ丸いものを暗示している」これが正解ですね。「イエスと精神的にも肉体的にも一体となって法悦の境地にいるマリア」も同感で、こんな大胆な図柄をものせるのはカラヴァッジョしかいないでしょう。ヒエロス・ガモスの言葉に表れているように、求道と求愛は二分されたものの合体と言う一点で一致しているのですから。
 ノーリ・メ・タンゲレは、復活のイエスに駆け寄ろうとしたマリアへの言葉で、普段から抱きついたりキスしたりしていたのだと言う説もあるようです。
 なおこれらとの関連で、ナグ・ハマディ写本にある『トマスによる福音書』という共観福音書とは別系列のグノーシス的文書に面白い文言があります。

「イエス言いたまえり、
汝ら二つを一となすとき、
内なるものを外なるもの、
外なるものを内なるものとなし、
上なるものを下なるものとなすとき、
そして男と女とを、ただ一つのものとなし、
もはや男は男でなく、女は女でなくなるとき、
そのとき汝らは天の王国に入るを得ん」

以下が私の返信【メール2】です。

【メール2】松代洋一さま いつも貴兄の博識には感心させられますね。マグダラのマリアの一件、小生の見解に前半のところは賛成していただいたようでありがとう。
後半の「ノーリ・メ・タンゲレ」の言葉を確認しようとして、聖書を繰ってみました。そのくだりは共観福音書にはなく、ヨハネ伝福音書にありました。
「イエス言い給ふ。『われに触るな、我いまだ父の許に昇らぬ故なり。』」20-17ですね。はじめ主の遺体が見あたらないので泣いていたマグダラのマリアがふと後ろを振り返ると、そこに立つイエスが「をんなよ、何ぞ泣く、誰を尋ぬるか」マリヤは園守ならんと思ひて言ふ『君よ、汝もし彼を取去りしならば、何処に置きしかを告げよ、われ引取るべし』20-15のあと、イエスが「マリヤよ」と声をかけると、やっと気づいたマリアが、「ラボニ」と呼んでうれしさのあまりすがりつこうとした様子がわかります。「ノーリ・メ・タンゲレ」はその時の言葉ですね。
病人も信者もイエスの霊力による治癒や清めに期待してみな、イエスに触れようとした記述は聖書の随所(たとえばルカ伝18-15「イエスの触り給はんことを望みて人々、嬰児らを連れ来たりしに」)にありますが、「われに触るな」という記述はほかにはないかも知れませんね。マグダラのマリアが触れる行為は、マリアに抱かれていたかも知れない地上の神人イエスが、まさに昇天して父なる神と聖霊と三位一体化しようとするときの禁止の句ですから、貴兄が指摘したようなグノーシス的解釈も成り立つのでしょう。小生もそうだろうと思います。
トマスの福音書は読んでませんから、そのうちに見ておきます。金子務

その後、松代君から、「トマスの福音書」についてこういうメールをもらっています。

【松代氏の返信】メールはどうか自由にお使い下さい。お役に立てて光栄です。なお「トマスによる福音書」の文言は The Gospel According to Thomas、Harper&Row、1959 の英訳から訳しましたが、その後、荒井献の訳および解説が同名のタイトルで講談社学術文庫から出ています。松代洋一

 以上、不敬な老童二人の痴話をお許しあれ。