森達也著

『私たちはどこから来て、どこへ行くのか―科学に「いのち」の根源を問う』 筑摩書房 2015年10月刊

映画と著作の両面で活躍する自称「文系人間」が、科学界の生きのよい論客一〇人に、質問攻めにした快著だ。テーマは、ゴーギャンも問いただしたあの不滅な教理問答「私たちはどこから来たのか。何ものか。どこへ行くのか」で、森氏が文系と理系にやたらに分けたがるのがすこし嫌みだが、無知な文系を装う森ソクラテスの放埒さが、現代の律儀な専門家たちに、人間存在ぎりぎりのところで「わからない」といわせる戦略、と思えばよいのかも。なにしろ、冒頭の福岡伸一も断るように、「なぜ」と問うのは人間の根源的本性だが、これに「いかにして」と答えたところで、満足させられるはずもあるまい。

現代のソフィストたちは生物学者四人、脳科学者二人、進化生態学者一人、物理学者一人、サイエンス作家一人。地上から宇宙にまたがる生命論は、雄弁な著者のおかげでなかなか読ませる。

ドーキンスの生き物とは「利己的遺伝子」の乗り物にすぎない、という見解に反して、長谷川寿一は、人間とは自己犠牲をいとわぬ生物である、と説く。他者への協力、共感が、チンパンジー社会と違う人間社会を生み出したとすれば、自然淘汰と種間競争を強調するダーヴィン進化論も見直さねばなるまい。昨年死んでしまった団まりなも細胞レヴェルでの協力関係を重視していた。田沼靖一は細胞の死にも二相あって、細胞が「自死」(アポトーシス)して個体を温存循環させるものと、「寿死」(アポビオーシス)して個体を消滅させ自然大循環にはいるものとあるといい、そっれならば人間は後者になる。

表題と密接するのが、人間を出現させるお膳立てがこの宇宙で用意されてきたという「宇宙原理」の可否である。エントロピーから、池谷裕二は、人間存在は「宇宙を早く老衰させるために存在する」というから否定派となるが、明快な回答はここでは見られない。生老病死の人間苦四相を凝視したシャカの意見を、改めて徴する必要があるのだろう。

(『公明新聞』2016年1月4日付け掲載)