永井克孝兄へのオマージュ
東大教養学科科学史科学哲学5期生 金子務
永井兄が亡くなった。万感の思いが押し寄せる。肺炎の悪化が原因だった。それにしてもまだ早すぎる。永井兄だからと期待された仕事がいくらでも待っていたろうに。ご本人もご家族も無念なことこの上ないはずだ。いつも落ち着いた飾らない人柄が魅力であった。明晰な頭脳と白皙なリストばりのマスクに笑みを浮かべて、独特な新潟訛りの残るテノールで訥々と語る、あの魅力的な先輩がいなくなるなんて、まだ私には信じられない。
いかにも無教会派のすっきりした斎場であった。代々木上原の丘にある住宅街の一角である。白い花が永井兄の遺影を囲んで正面の祭壇を埋め尽くしていた。家族葬ということだが、それでも四,五十人の親しい方々が駆けつけていた。ご遺族の和子夫人の、聖書の一節を読まれたあとのご挨拶も簡素なものだった。「故人は学生時代にかけがえのないお二人にお会いしました。木村雄吉先生と前田護郎先生です」とおっしゃっていたが、私はそっと自分で付け加えた。「もう一人いますね、和子夫人でしょう」と。
日本経済新聞「交遊抄」(1910年9月)欄に、永井兄と和子夫人お二人のことを私は短い文に書いた。引用しておく。

いま、『宮沢賢治イーハトヴ学事典』編者の一人として仕上げ作業に忙しい。この新事典で文学と科学は反りが悪いという世評にぜひ反証したいものだ。身近にもこの異種のおしどり夫妻がいる。学生時代からの恩師・木村雄吉先生を囲む求道学舎の白雄会同人で先輩の、永井克孝氏と和子夫人である。淑やかな夫人は高名な平安文学研究者で学習院女子大学学長。学習院女子高時代は演劇でも活躍した。学問一筋の先輩は東大医学部教授・都臨床研所長・三菱生命研所長を歴任、いま理研研究顧問等を務める生化学者。糖鎖研究のトップリーダーである。
学習院女子大には、私も[和子夫人のお計らいで]十数年講義に出向いたが、古桜の美しいキャンパスに外国人留学生一〇〇人を含む一七〇〇人が集う。渉外・内政に敏腕をふるう和子学長のもとで、途上国への海外研修、ワシントン・セミナー、オノ・ヨーコ氏ら文化人の招待講演等と、国際交流に強く逞しい学生もふえた。激務の夫人学長を労って、永井先輩も毎日皿を洗う。
「老いの学問」がお二人に共通する。『源氏物語』が老女房の語りという形を持つ意味を探るのが[夫人の]研究の中心だし、遺伝子一点張りに異を唱えた、[永井兄の]ガン化・免疫・脳機能に関わる糖鎖研究も老化解明の鍵になろう。(以上)

私が駒場教養学科科哲の学生時代には、二期上の永井兄はもう実験着の院生であった。生物学思想・生化学の木村雄吉先生に就いて、銀杏並木に面した木造平屋の生物学教室でウニの実験などをしていた。柔道で鍛えた体躯に、厳しいが笑みをたたえた顔貌の木村先生は、渋い声音でわれわれ学生たちを「いのちの迷宮」へと魅了していた。永井兄は、「ほんものを前にした戦慄の鋭い感覚を教えて下さった先生」、と書いている。やがて、助手になった永井兄ともども、先生は目黒の東大伝研(まもなく医科研になる)細胞化学研究室の教授として転出した。
その間、科哲以来の、ベルタランフィ、ケストラー、ウッジャー、ホワイトといった生物学思想の読書会が目黒でもつづき、新聞社に入っていた私も、都合を付けては参加した。やがて昭和40年(1965)木村先生が退官されると同時に、読書会は先生居宅の本郷・求道学舎に移り、「かたち」の生物思想家ランスロット・ロー・ホワイトの「白」と先生の「雄」をとって、「白雄会」へと生まれ変わった。この塾頭格が永井兄であった。四期生の武富保・田中健治・伊藤幸郎・秦葭也君や金子がメンバーだった。ときに本郷出身の伊東俊太郎学兄も加わった。求道学舎は東本願寺在家仏教の拠点として近角常観師が拓いたもので、雄吉先生はその高弟かつ女婿であった。
教養学科の名物教授には、いつもノートの提出を求められるキリスト教思潮の前田護郎先生がいた。目を輝かせてしっかりした声で語る原始キリスト教の講義は、それこそフレッシュで刺激的なものであった。護郎先生は内村鑑三の弟子・塚本虎二師について聖書学と信仰を深め、無教会派の雄として世田谷で日曜聖書講義を主催していた。やがてこれに参加する武富君によれば、永井兄は護郎先生の日曜講義ノートを第一回から毎週作ってはお宅に届け、先生の片腕になっていたという。玄関先で数分後には「それでは失礼します」と帰っていく永井兄の姿を、若き日の和子夫人はよく覚えているそうだ。じつは和子夫人は護郎先生の姪御であり、お父上が護郎先生の長兄で眼科医の前田太郎氏なのである。お二人が結ばれたのは永井兄が薄給の助手時代で、夫人がお茶大で修士を終えた年であったという。

永井兄は、1969年のアポロ11号の取材を終えた私をボストンで待っていた。グレイハウンドでニューヨークから向かったのだが、ボストンはさすがにガス灯の似合う風格のある町であった。永井兄の手配でクエーカー・ハウスに二泊した。緑が濃い内庭を囲むように建つロッジである。無教会派の内村鑑三も新渡戸稲造も絶対反戦主義のクエーカーとは通じるものがあったようだ。永井兄はこの時、ボストンのマサチューセッツ総合病院に留学中で、そこには「エーテル・ドーム」があった。エーテル・ガス吸入法を使った全身麻酔の外科手術に、1846年初めて成功したアメリカ医学の聖地である。その階段教室に立ち、満場の拍手に包まれた往時を思い浮かべる私に、エーテルを染みこませたスポンジやマスク、説明パネルや写真類を案内して見せてくれた。麻酔医モートン、執刀医ワレン、患者印刷工アボット。華岡青洲の偉業の四二年後である。マンダラゲを主薬とする通仙散麻酔の全身手術は、経口投与のため麻酔が効くまで、また覚めるまでそれぞれ半日かかるが、麻酔ガス吸入法ではほんの数分で麻酔をかけまた覚ますことができる。
永井兄とハーヴァード大学のキャンパスを散策した。第一次大戦戦没学生記念碑とスウェーデンボルグ教会が印象的だったが、よく整理された開架図書館で感心しながら書棚を見ていたとき、永井兄が突然、「あった!」と大声を出した。前年に笠間書院から出た和子夫人の処女作『寝覚物語の研究』が所蔵されていたのだ。写真に撮って送る、と小躍りしていた永井兄の姿を思い出した。
芸術にも明るかった。永井兄から「1492」というカセットテープを頂いた。ギリシアの作曲家バンゲリスのもので、南蛮時代に入れあげていた私にぜひ聞いてみろ、というのだ。あいにくカセットラジオが壊れていたので改めて買い求めたが、まこと雄大、コロスも素晴らしい。すっかり気に入っている。
ある時、逗子に住む抽象画家嶋田しづさんのアトリエに案内された。クレーやカンジンスキーに詩情性を加味した画風である。大岡信氏同様、私も大のファンになった。永井兄はよく画廊に出かけては、若い絵描きを励まし、買い上げていたらしい。あとで夫人が送ってくださった永井兄の遺文類に、心象画の大家松田正平画集や賢治研究で高名な詩人原子朗墨戯展への見事な寄稿などがあった。嶋田さんともそうだが、松田・原両氏とのつきあいも深い信頼関係に支えられていた。「真贋を見ぬく永井克孝さんのような方に見つめられる怕さ」と、あの原氏が書「今半也(今なかば也)」の舌代に書いている。
永井兄はいざ書くとなると、実によどみない明晰な文を書くことを知っていた。科学雑誌『自然』に「エクトバイオロジー」の論考を頂いた。細胞膜の重要性をいちはやく問題提起して、糖鎖研究や細胞社会学の研究を喚起することで反響を喚んだ。永井兄と共編した木村先生の第2遺稿集でも、見事な総説を巻頭に書かれた。これを読んで改めて感銘を受けた私は、長電話のついでに話しかけた。「あれを元に一般書にしたら、いかが」と。独特な小さな笑い声で応じただけであった。寡黙な麗筆家なのだ。白雄会の帰りに、渋谷の喫茶店で突然細身の永井兄が失神したことがある。低血圧であったのだ。私も無理は言えなかった。
永井兄の学術講演を数回拝聴した。いつも周到な準備をして、はっきりした口調でじつに滑らかなのだ。科哲の会でも研究所運営の話が印象的であった。東大医学部教授退官記念講演だったか、最後にパウル・クレーの植物形態研究図を出して締めくくられた。見事なもので、会場は感動に包まれていた。
最後に、永井兄の生命思想を象徴する「生命を貫く時の矢」(細胞社会学、生命の統一性と多様性、生命諸科学の関係図)を掲げて、永井兄へのオマージュにしたい。
(この図は永井兄の原図をもとに鈴木明身氏が作成したもの。詳しくは、永井克孝・金子務共編『生命のかたちー木村雄吉の学問と思索』学会出版センター、2004年、所載の、永井兄による「はじめにー生命科学研究の現状と木村雄吉先生の生命思想の意義」ppⅰ-ⅶを見よ)

永井克孝氏 1931年生まれ。2014年6月23日没。82歳。家族葬は6月30日にすませ、偲ぶ会は2014年12月6日午前11時30分より東商スカイルーム(東商会議所ビル8階、千代田区丸の内3-2-2)で行われtた。