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鳥捕りと切符
 いま詩人で賢治研究者の天沢退二郎さんと文学研究の鈴木貞美さん(国際日本文化研究センター教授)と私の三人で語らって、『宮沢賢治イーハトヴ学事典』を鋭意編集中である。今秋つまり2010年11月頃にも出したいと版元(弘文堂)はいうのだが、はたしてどうなるだろうか。150人余の方々にお願いして原稿を集め、同時に編集人三人もかなりの分量を執筆中なのだが、私はとくに科学者・農学者であり鋭い自然観察者でもあった賢治の側面を、多方面の研究者を動員して、十分に盛り込む役割を担っている。畏友の一戸良行さん(優れた化学者で毒草研究もあり、賢治研究でも一家言をお持ちである)ともよく話し合うのだが、賢治理解にはその科学的技術的背景をしっかり押さえることが必要であることは、どなたにも異論がないだろう。今回の事典計画も、一戸さんに唆された私が、天沢さんや鈴木さんを口説き、出版社を説得して始まったのだから、責任を大いに感じている次第である。

 この事典にも書き、別の機会に指摘もしてきた話なのだが、私にとって賢治童話では『銀河鉄道の夜』がなんといってももっとも興味をそそる物語である。これには面白い話がいろいろ詰まっていて、とりわけ謎の人物・鳥捕りと切符のところが読み解く上での鍵の一つ、と思っているので、改めてこの部分についての私の考えを紹介しておきたい。

切符と四次元

 ベーリング行きの最大急行とかいう切符(『氷河鼠の毛皮』)は厚紙の硬券だろうが、銀河鉄道の切符は薄紙の軟券であったろう。磁気券が出るまでは、国鉄の切符は、イギリス由来のエドモンソン式硬券Aという、縦横3.00×5.75cmの厚い切符が通用していた。ところが、銀河鉄道で「切符拝見」といわれて、ジョヴァンニがあわてて上着の隠しに手を突っ込んで出した切符は、「四つに折ったはんけちぐらいの大きさの緑いろの紙」というのだから、軟券系の薄紙の通行券である。

「これは三次空間の方からお持ちになったのですか」と、車掌に聞かれて、「何だかわかりません」と答える。しかし 車掌は「よろしうございます」と納得する。 なぜ、三次元方向からの乗客の切符であると、車掌には納得できたのだろうか。

 まず、一次元のラインランド国や二次元国のフラットランド国からの客でないことは直ちに分かったはずである。切符の紙が折ってあるからである。一次元の線分人でも二次元の平面人でもない証拠である。紙を半分に折る、ということは、われわれ三次元のスフィアランド人には容易なことだが、二次元平面人にはできない。なぜなら、紙を折るということは、その半分んp一端を三次元方向に持ち上げて、ぐるっと回して、それまで同じ面であったものを上下に重ねるという行為である。そもそも三次元が存在しない平面世界では、三次元方向にその一部をまず飛び出させることが奇跡の神業である。車掌から見て、まだ四次元国の住民になっていない珍客だとすれば、ジョバンニは、間違いなく三次元方向からの乗客に違いない。
 ここで思考実験してみよう。われわれ三次元国のスフィアランドに四次元人が現れたら、たとえば蓋を開けずにワインを瓶から出してグラスに注ぐことを、いとも簡単にやってくれるだろう。四次元人は、じつは、三次元の瓶から四次元方向に中身を取り出して、三次元空間のグラスに戻しただけなのである。

 もしわれわれの世界で、四次元方向に自由に出て戻る(以下に述べるana-kata 運動)ことが可能な霊能者が存在するならば、例えば、両端を封蝋で閉じた一本の紐に結び目を作るとか、オークとアルダーウッドの二種の木材をくり貫いて作った二個の輪を、壊さずに一個にするとか、カタツムリの右巻きの殻を左巻きにするとか、などができるはずで、テストにかけて確かめられるとした先人が一九世紀にはいたのである。これがイカサマでなく本当に実現したら、四次元空間の存在が確実視されるだろうが、いずれも成功することはなかったのである。
 これらは、みな四次元空間(時空でない!)の思考実験である。われわれは、ユークリッド的世界が四次元空間やそれ以上の高次元空間にも保証されれば、超立方体や超球でも自由に考察できる。いまこの手の四次元問題に挑戦した、19世紀の数学者チャールズ・H・ヒントンや現代のSF作家で情報理論家ルディ・ラッカーの提案を採用して、その世界の異次元方向をアナ(ana:「上に」の意)方向、逆に異次元から元の世界方向をいう場合をカタ(kata:「下に」の意)方向と呼ぶことにしよう。

 すると0次元の点は点が一個しか存在しないから、(点1、線0、面0、立体0)である。その点一個を一次元の方向に1単位アナ運動させると線分ができる。この一次元の線分は両端の点二個とそれを結ぶ線一個からなるから、(点2、線1、面0、立体0)と書ける。その線分一個をまた二次元方向に1単位アナ運動してできる正方形は、四隅の点四個、それらを結ぶ線四本、四角の面一個だから、(点4、線4、面1、立体0)になる。この正方形をさらに三次元方向に1単位アナ運動してできる立方体は頂点が八個、稜線が一二本、面が六面、立体は一個だから、(点8、線12、面6、立体1)になることはいうまでもない。この三次元空間はわれわれが日常的に動き回っている空間である。いまわれわれの世界が、四次元空間に埋め込まれている三次元世界であるとしよう。この異次元である第四次元方向に立方体を1単位だけアナ運動させることを想定してみよう。いままでのアナ運動からのアナロジーを使えば、点は倍に、線(稜)はアナ移動によって頂点の八個が八辺にかわり、移動前後の2個の立方体の辺、各12が加わるから32個になることがわかる。こうして四次元の超立方体は(点16、線32、面24、立体[胞体]8)になる。これはヴィトゲンシュタインの『論考』にも出てくる超立方体の図によっても納得がいこう。

 それにしても少年ジョバンニの切符は子供運賃だったのか気になるが、行き先を示すらしい「をかしな十ばかりの字」が、黒い唐草模様の中にあるのがものすごい。脇から覗きこんだ鳥捕りが、「ほんたうの天上」に行けるだけでなく、「どこでも勝手に歩ける通行券」だと保証し、ジョバンニ自身が「天上なら行きっきりでない」切符だというのだから、これは「天国ゆき、片道最長切符」ではなく、「地上から地上ゆき、天国経由」の回遊切符なのだろう。「十ばかりの字」とは、仏教のいう十界、すなわち輪廻転生する六道を突き抜けて仏や菩薩の宿る四聖道を経巡る十界ステーションを示す梵字かもしれない。

「銀河鉄道の夜」初期形に出てくるブルカニロ博士は、「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。」といって、帰還するジョバンニが、菩薩行として、地上の世の中で務めを果たすことを促す結末である。

鳥捕りのイメージ捕り   『銀河鉄道の夜』に出てくる謎の人物・鳥捕りについて、それが詩人賢治のイメージ捕り、すなわちメンタル・スケッチのメタファーではあるまいか、とかねてから気になっているので、その理由を改めて書いておこう。

 問題の「鳥を捕る人」は第八節にあたる。鳥捕りは鶴や鷺や雁や白鳥を自在に捉える名人である。カンパネルラとジョバンニの二人が白鳥座の停車場を降りて白い岩のプリオシン海岸を走って列車に戻ったら、その座席に乗り込んできた、ぼろの外套を着た尖った帽子の赤髭男、という設定である。

 私が、詩人である賢治自身のイメージ狩りを、鳥捕りに擬人化したと考える出発点は、あの『春と修羅』序の、「過去と感ずる方角から/紙と鉱質インクをつらね/(すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるもの)/ここまでたもちつゞけられた/かげとひかりのひとくさりづつ/そのとほりの心象スケッチです」とある、その心象スケッチの過程を、鳥捕りの行為が記述しているように思えるためである。

 賢治の「心象スケッチ」はベルクソンの『形而上学入門』の影響であることは周知のことだが、ベルクソンのいう「イマージュ」が、ものの周りを回ってスケッチする科学的概念の複雑さと、ものの中に入り込んで認識しようとする哲学的直観の単純さの、いわば中間項に当たる位置に置かれていることを思い出す必要がある。「哲学者の心に絡みつき、その思想のさまざまな回り道を通して影のように付きしたがっていく逃げ易い消えそうなイメージ」、をよく観察して、その影を投ずる本体の姿を「持続の相において」感得するのが、ベルクソン的方法であった。それを詩の場面で、「かげとひかりのひとくさりづつ」に書き留める試みを賢治はしてきたのであろう。

 たとえば鷺は、鳥捕りによれば、天の川の砂が固まってできたもので、川原に帰る習性があるから、川原で待ちかま えて、地面に着くや否や「ぴたっと押へちまふんです。するともう鷺は、かたまって安心して死んぢまひます。あとはもう、わかり切ってまさあ。押し葉にするだけです。」という。この押し葉は標本ではなく食べる菓子なのだと説明される。鳥たちはいずれも捕まって袋にいれらるとしばらくは「青くぺかぺか光ったり消えたり」しているが、これは「因果交流電灯」的イメージを捕獲するとしたら当然であろう。やがて「ぼんやり白くなって、眼をつぶるのでした。」とあるのは、イメージが文字あるいは活字に固定されることであろう。

 押し葉は印刷された紙のイメージである。詩作として公表するには、それは印刷されなければならない。活字を鋳造したり溶かしたりするイメージは、「溶鉱炉から出た銅の汁のやうに」という表現からも示唆される。ここでは、イメージとして捕らえられない大方の鳥が、銅の汁のように砂の上にひろがり、やがて鳥の形もわからなくなる、というのである。捕捉されない無数のイメージの溶解、たまたま詩人に捕らえられたイメージの固定化がここでは語られているのであろう。

 詩は他者に読まれることが、菓子のように食べられることにメタファーされているのではあるまいか。

 イメージ・捕捉・印刷の関連は、初期形にある、ジョバンニは「学校から帰ってからまで、活版処へ行って活字をひろったりしないでもいいやうなら」だれにも負けないで人馬や玉投げだってできるのにとある記述、これが最終稿では、「活版所」と題して第二節に置かれていることにも現れていよう。

 そこではジョバンニが、「一つの小さな平たい函をとりだして向ふの電灯のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒ぐらゐの活字を次から次と拾ひはじめました。…‥ジョバンニは何べんも眼を拭ひながら活字をだんだんひろひました。六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもった紙きれと引き合わせてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。」と続いている。

 鳥捕りは鷺を20匹ほど袋にいれてしまうと、急に両手をあげて弾に当たって兵隊が死ぬような形をしたと思ったら、その形が消えてしまう、という記述が続く。これなども、詩の創作活動が終わることを暗示しているのだろう。と、いつのまにやら鳥捕りは隣の座席に現れて、「そこでとって来た鷺を、きちんとそろへて、一つづつ重ね直してゐるのでした。」と書かれているが、私には活字を並べ直している作業工程のようにも思える。

 イメージの世界から現実の四次元鉄道の世界への自由な往来を不思議に思ったジョバンニが、鳥捕りにそれができる理由を聞くのだが、「どうしてって、来やうとしたから来たんです。」と詩人 = 鳥捕りが答えている。

 賢治の絶えざる推敲過程を見れば、まさにこの往来が自在に行われていたことに異論もないであろう。
『かまくら・賢治』第6号(2010年9月)pp.7-11
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