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1922年、アインシュタインは日本に何を見たのか?
ただ1回のアジア体験旅行

 大正10年(1921)、中国からの帰国の途次、日本に上陸した哲学者バートランド・ラッセルに、新興の出版社、改造社社長山本実彦は、得意の質問をぶつける。「現存する世界の偉人を三人あげてほしい」というものである。ラッセルの答えは「一にアインシュタイン、二にレ−ニン、三はいない」というものであった。ラッセルのアインシュタイン評価は、ロシア革命を成功させたレーニンよりも高かった。「自己の利害に関係なく発言し、行動する」という、アインシュタインの無私性が高い評価を与えたのである。

 ここに改造社側はアインシュタイン招聘の意志を最終的に固めたといわれる。

 当時のドイツはヒトラ−らによる反ユダヤ運動が盛んで、ワイマ−ル共和国のユダヤ系外相で、アインシュタインの心の友ラテナウが暗殺されるなど政情は騒然としていた。アインシュタインの首にも懸賞金がかかっていた。アインシュタインは一度は契約金の問題で訪日を断り、二度目に訪日の決断をする。改造社の旅費込み2万円という謝金は大金ではあったが、この旅は世界市民と世界政府を理想としていたアインシュタインにとっても、只一回のアジア体験旅行になったのである。今日と違って旅行の手段は船しかない時代である。日本郵船の定期航路で往復の船旅60日を費やし、日本滞在は43日間に及んだ。あわせて100日以上の日数を、脂の乗り切った43歳のアインシュタインは、惜しみなく訪日事業に使いきり、迎えた日本も十分にそれに応えたのである。


鍛えられた特許局役人時代

 まず簡単にアインシュタイン(Albert Einstein)のユニークな略歴を見ておく。

 1879年にドイツの、高い教会の尖塔で有名なウルムに生まれた。まもなく南ドイツのミュンヘンに移住、父は叔父とともに電気事業を営み初めは恵まれた環境に育ったが、ミュンヘンのギムナジウムに通ううちに父は破産する。イタリアに移住した両親を追って独断で高校を中退、大学受験に一回失敗したが、スイスのチューリッヒ工科大学に入学して理論物理学を専攻した。当時のアインシュタインのささやかな夢は高校教師になることだったが、その場合、慣例としていったん大学助手として残り博士号を取得してから転出するのが普通とされていた。ところが同窓4人のうちアインシュタインだけが助手に採用されなかった。一説によれば教授の心証を害した上、物理学実習の出席を怠っていた。

 半年経ってもなお浪人中のアインシュタインは、「北海からイタリアの南端まで」各地の教授に助手就職依頼状を送りつづける。やむを得ず、工業高校の代理教員や保育所の臨時仕事、家庭教師をしながら、学友の父の口利きでスイス連邦特許局に就職できたのが1902年6月、技術専門職三級試用である。その間に同級の女子学生ミレーバと結婚するが、2年近い不安定な時期はひとまず終わる。

 当時の特許局長官はフリ−トリッヒ・ハラ−で、国土測量の分野から初代長官として赴任してきた人物であった。ハラ−の教育は厳しく、特許申請書類の審査手順について文章表現から技術的事項まで事細かに個人指導された。役所生活に手抜きなどは許されなかった。事実、アインシュタインは厳しい試用期間を2年以上も送って、やっと一人前の三級技官になっている。ハラ−は優れた方法論者で、特許審査に関しては「まず発明者の考えはすべて間違いではないかと考えよ」、が持論であった。この批判的な目がアインシュタインの学問的姿勢を鍛えることになり、特許局時代をもったことを感謝することとなる。

 アインシュタイはやがて特許審査官としての実力を認められていった。明るいユーモアをもって同僚たちと、役所の義務を「靴屋の仕事」と呼び、やがて有名になったアインシュタインを特許局を訪ねて来る研究者に、「研究室は?」と尋ねられると、黙って自分の机の引き出しを開けてみせたという。


仕事の合間の「沈黙」

 アインシュタインは1906年には二級専門技官に昇進した。一つだけ感銘深い役人時代のエピソードを紹介しておく。ある後輩に役人として成功する秘訣をきかれたとき、アインシュタインはこう数式の形でこたえたものだ。
  A=x+y+z.
    Aは成功、xは仕事、yは遊び、zは沈黙
である。

 この「沈黙」に注目すべきだと私は思っている。アインシュタインは職場で人の目を盗んで計算することなどはなかったが、仕事の合間の沈黙の時に自由に思考実験を展開していたのであろう。思考実験は頭の中で実物実験を想定して行う想像実験である。屋根職人が滑り落ちたときの浮遊体験、重力の海に落下すると重さが消えてしまう状況から、エレベーターを宇宙空間に持っていって自由落下させたらどうなるか、などである。ここから重力質量も慣性質量も同等という「等価原理」を生みだして、特殊相対性理論を重力や加速度の働く世界に一般化する一般相対性理論の構築に突き進むのである。特殊相対性理論は、力の作用のない慣性系の物理学を扱っている。実はアーラウ州立学校時代の教室で、光の矢を光の速さで追いかけていったらどう見えるか、という光の矢の思考実験に始まり、そのイメージを10年間追い求めていった結果でなのである。こういう沈黙のイメージの豊かさは、今日、研究や教育の現場でもっとも忘れられてる問題ではあるまいか。

 思考実験を除けば、若きアインシュタインにとっての実質的な研究室は家庭であり、有力は助手はチューリッヒ工科大学の元同級生で数学が得意であった妻ミレーヴァであった。彼女はかねてからアインシュタインの着想の聴き役と批判役を演じていた。

 1905年のいわゆる「物理学奇蹟の年」前後は、ハビヒト兄弟やソロヴィーヌ、ベッソー夫妻などの友人たちとアカデミー・オリンピアと称する読書会を定期的にもち、哲学書や科学の基本書などを読み議論していた。ミレーヴァも控えめにこの議論に加わっていた。この知的サ−クルは、彼自身の知的営為の開花に貢献したことは間違いないだろう。

 1905年の100日間に書かれた三大論文は、どれもノーベル賞級の大研究なのであった。マックス・プランクらが編集、権威ある国際誌『物理学年報』第17巻の各号を飾ったのである。嵐のような100日間、ミレーヴァは寝る間も惜しんで熱狂的に書く夫の原稿を点検し、ライプチッヒの編集局につぎつぎと投函するのを手伝った。とくに特殊相対性理論の論文完成には5週間もかかり、投稿後のアインシュタインは疲れ果てて2週間も寝込んだ。

 第1弾は、光を一定のエネルギーをもった粒子とみなし、それらが自由に空間を飛び交うという光量子仮説を述べた論文であり、編集部受理が3月17日(のちの1921年度ノーベル物理学賞受賞論文)。このあと堰を切ったように第2弾、第3弾と投稿される。すなわち、まず水に浮いた花粉粒子の不規則運動を、水分子の不規則運動から統計的に説明を与えたとブラウン運動論は5月11日編集部受理、掉尾を飾る特殊相対性理論が6月30日の受理である。

 この3大論文はいかにもアインシュタインらしい考察態度が共通していた。すなわち光量子論文はローレンツの電磁気理論と力学の限界を問い、ブラウン運動論文は熱力学と力学の限界を探り、特殊相対性理論論文は質量も時間も長さも絶対的なものでなく観測系に依存することを明確にして、ニュートン力学の限界を突き抜けて、原理的に理論を構築する範例となったのである。

 1909年以降はアインシュタインも大学に研究の場を移す。チューリッヒ、プラハ、ベルリンである。この間の1922年、初めてのアジア訪問となる日本への旅がはいる。湯川秀樹や朝永振一郎らの若者の心を捉え、大正期以降の各界の文化人や指導者らに深い影響を与えた。1933年にはナチス政権に追われて渡米、終生プリンストン高級研究所所員として未完成の統一場理論に挑戦した。


ぞくぞく新発見の訪日資料が


 正直いって、アインシュタインの1922年訪日の一部始終は、四半世紀昔の拙著『アインシュタイン・ショック』全2巻(1981年当初、河出書房新社刊、いま岩波現代文庫)に盛りきったと、私は密かに自負してきた。なにしろ、アインシュタイン訪日日記に辿り着いて太い筋が通り、国内外の関係資料や写真類も漁りつくしたと、思っていたからである。しかし今回の東海大学における展覧会までに、「アインシュタインLOVE」委員会スタッフの協力で、思わぬ資料の発掘がつづいて、まことに驚きつつ感謝している次第である。

 たとえば、私が訪日当時の日本郵船「北野丸」機関長のご遺族から写真ありとの連絡を受けたのは、もうだいぶ前なのだが、連絡を取ったその直後に当のご遺族が亡くなり、諦めていたところ、遺族関係者との粘り強い交渉の結果、初公開の記念写真が現れた。徳川義親候夫妻らとのリラックスした船中記念写真である。今回の東海大学展覧会がきっかけになって、この「北野丸」に同船していたインド領事の渡辺智雄氏夫妻の娘の恭子(やすこ)さんがアインシュタイ夫妻に気に入られ、「ぜひ、養子に」という話まであったことを、智雄氏の孫、恭子さんの子息に当たる渡辺峰道氏から聞かされた。あわせて、峰道氏所蔵の船内写真やアインシュタインの初見の肖像写真も、貴重なものであった。

 帰りの日本郵船「榛名丸」では、やはりアインシュタイと同船した方々お二人、画家の前田寛次氏と物理学者の鈴木清太郎氏のご遺族と連絡が取れて、スケッチ帳や同船紀行文などを拝見、展示内容を深めることができた。同じく同船した周知の工学者鷹部屋福平氏の場合は、前には見つからなかった「船中日記」そのものをご遺族が見つけだしてくださり、これも貴重な初見資料になった。そのほか、宝生流の観能会や松島ホテルでの記念写真など、初見得のものも多い。これで欲をいえば、来日当時の記録映画か、輸入上映されたドイツ制作「アインシュタイン映画」フィルムが見つかればよいが、と願っている。


日本知識人への影響

 アインシュタイン・ブームの大正日本には、すでに広大な科学的知識を要求する社会階層が存在していた。第一次大戦後、日本の産業化が急速に進み、技術者・熟練労働者・教師・学生といった人々が現れ、都市に集まり、知識階級へと加わっていた。この時期、また日本はすばやく外国文化を取り入れていった。すなわち、週刊誌の刊行や映画人気にわき、喫茶店・バー・ダンス・写真・洋装が流行し、有名ミュージシャンやダンサーが来日し、海外からの科学者の招聘などがつづいた。この頃初めて、人気のある科学雑誌も現れた―『科学知識』(1921年創刊)と『科学画報』(1923年創刊)である。寺田虎彦の「科学人気は良いことだが、俗化されるべきではない。」という懸念にもかかわらず、これらの刊行物は、写真製版技術の進展で、視覚的効果を上げることを重要視した。このようにして、アインシュタインの日本訪問の結果、科学への関心の高まりに一気に火がついたのである。

その当時世界で7人しか相対性理論を理解している人はいない、とよく言われていた。にもかかわらず人々は相対性理論について聞こうと集まった。これは、広く展開した大正デモクラシー運動を支える知識階級の大部分が、相対性理論を孤高の物理理論としてではなく、新しい地平をきり開く思考方法だと期待したからである。

  大雑把には、2つの特徴を持っていると考えられた。まず一つには、相対性理論は、自分が宇宙の中心であるという人間の共通感覚に根本的な異議を唱え、論理的な限界を人間の五感に設けたとみなされた。考えてみれば、ユークリッド幾何学を発見し、ニュートン力学を樹立し、そのあげく絶対時間と絶対空間といったカント哲学のコンセプトを考え出したのも、全て、自分を宇宙の“中心”におくという人間の視点と関連して成り立ってきた。相対性理論は、このような視点はもはや保証されることはないとした。二つには、それが主張するのは単なる相対主義や多元論ではなく、徹底した相対化を通してゆるぎない1つの絶対的関係を構築することを目的としているという点である。相対性理論によれば、どんな自然法則も、それを推測しようこうとする観察者が誰であれ、他の観察者に対してどのような運動関係にあろうとも、またどのような言語表現を使おうが、それらに関係なく、同一の形式で表現されることを要請している。ローレンツ変換によって、観測者たちのさまざまな観測結果はゆるぎなく結びつけられ、相対性理論の一定不変の式に書かれるのである。

要するに、“相対論の視点”の意義は、第一に、通常の感覚や常識の介入を閉め出すという事実に、また第二に、優先的視点(座標軸)の存在を否定することを通して、絶対的関係や全般的な実在をつかもうとする事実に、それぞれ見出すことができる。こういう意義を、大正デモクラシーの日本人たちは、アインシュタインの相対性理論に感じ取っていたのである。


軍国主義を非難しない限り

 最後に、ある日本の社会思想家とアインシュタインの間で白熱した議論が展開されたことを述べておこう。山宣(やません)として知られる山本宣治が、自分の訳した反戦本に対する推薦を受けるために、京都の都ホテルにアインシュタインを訪ねての出来事である。引き留められた山宣とアインシュタインの間で知識人の役割が議論されたのである。アインシュタインは平和運動における知識階級の役割に期待していた(だからこそ国際連盟知的協力委員会の仕事を引き受けたのだ)が、山宣はこれを完全に拒否し、労働者の運動に希望をかけていることを表明した。これは単なるドイツと日本の政治的な状況の違いというより、国際的視点を持つアインシュタインと日本の現実に挑戦する山宣の違いでもあった。山宣とアインシュタインの対話の場にいた若い知識人は、アインシュタインが手を激しく動かして、「あなた方が日本政府の軍国主義と盲目的愛国心を非難しない限り、世界に平和は訪れない」と怒ってドイツ語で主張した、と書いている。

 残念ながらアインシュタインの旅行日記には、この記念すべき会合について全く記載がなく、山宣の手記しか遺っていない。
『望星』2010年9月号金子務「1922年、アインシュタインは日本に何を見たのか?」pp.26-32.
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