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全面開放された軍都旅順を巡って
北東アジアの制海権と軍港旅順

 ちょうど旧正月明けで、旧上野駅をモデルにしたという大連駅前広場は大きな荷物を運ぶ人々の群れでごった返していました。(ここから特急で北上5時間の昔の奉天、いまの瀋陽駅は東京駅がモデルです。)雑踏を抜けて20分も東に歩けば、10本の大路が交わる直径213mもある中山広場、日本統治時代の大広場、ロシア時代のニコラヤフ広場です。20世紀初頭の満鉄系大和ホテル(いま大連賓館)、横浜正金銀行(いま中国銀行)、大連市役所(いま中国工商銀行)、大連警察署や英国領事館など様式も異なるレトロな洋風建築群10棟が特異な景観を生み出していて、背後の金融街高層ビル群と対照的です。

  私は、昨年末から外国人に全面開放された日露戦役の激戦地、旅順(大連市旅順区)の現状を見ておきたいと思ってやってきたのです。おっつけ、NHKドラマ「坂の上の雲」で、旅順のことは詳しく取り上げられるでしょう。旅順港は大連市街区から西南約30キロ、遼東半島最南端にあります。黄海と渤海を分かち、渤海海峡を隔てて山東半島を望む天然の不凍港です。しかも三面を海に囲まれ、北京・天津の喉元にあるという戦略上の要地のために、清国がここに本格的な要塞と軍港を十数年かけて建設し、中国初の海軍、北洋艦隊を誕生させたのです。とくに定遠・鎮遠は世界一流、アジア屈指、厚さ30センチの鋼板で舷側を保護した甲鉄巨艦の巨砲で圧倒しました。しかし日清戦争の2海戦で、船足と速射に勝る日本の連合艦隊によって北洋艦隊は壊滅、旅順要塞も指揮官逃亡により1日で陥落したのです。
 
  以来、日露戦争や第二次世界大戦を挟んで、旅順の統治者は、清国→日本(占領・返還)→清国→ロシア(租借)→日本(租借)→ソ連(進駐)→中国と変わり、中国に引き渡された1955年以来、閉鎖地域でした。ようやく、二〇三高地や出師営などの北部が外国人に開放されたのが1996年。いままた軍港周辺を含む南部が昨年11月に全面開放されたのです。

二〇三高地・出師営 

  集票所で1人30元の入山料を払い、広い駐車場の一角に出ると、大きな中英日の3カ国語で書かれた案内板があり、土産物も売る陳列館も見えました。岩山だった二〇三高地も、いまはすっかり疎林に覆われ、舗装の登り坂が続いています。頭上を、頭と胸だけが鮮明に白の黒鳥カササギが飛び交って啼いています。肉弾攻撃の日本軍死者1万5千人、ロシア軍側5千人も出した地とはとても思えません。15分も歩くと頂上です。

  標高203m、彼方に左右から狭まった旅順湾口が明るく光っています。そこを封鎖したら、湾内の艦隊は日本海軍のねらい通り砲撃の餌食です。中央2段の石張り円座上に建つ砲弾型碑は、やっと制圧した第三軍司令官乃木希典が、戦場の砲弾薬莢や不要の兵器を集めて鋳造させ、二〇三を「爾霊山」、ニレイサンと命名した慰霊碑です。銘板の表面は削られ、「銘記歴史 勿忘国恥」(国の恥を忘るるなかれ)の標柱がありました。登山道の反対に降りると、ロシア軍のカノン砲や塹壕・トーチカ跡、乃木大将次男保典の戦死跡などがあります。

  出師営に回って黒木鳥居風門をくぐり、復元藁葺き農家の乃木・ステッセル会見場に寄ってから、新公開の南部へ。途中、左手の山上に白い塔状の記念塔が見えました。激戦地、白玉山の表忠塔です。

旅順博物館ほかと革命家・安重根

 港近くで見事な鋳鉄門から旅順博物館に入ると、まだ公開された部屋は4つほどで、古い土器や鉄器の展示でした。大谷探検隊の収集品が有名なのですが、見あたりません。大きなマンモスの牙が飾られていました。正面を出ると見事なビャクシンの植え込みが左右に並んでいます。この左手、黄色の壁が目を引く4階建ての建物は、旧関東軍司令部跡(満州国設立で旧新京、長春に移転します)で、ロシア統治時代の記念館にもなっています。

 近くの通りに面して、3階建ての旧旅順大和ホテルが手軽な宿泊の招待所に変わっていました。東洋のマタハリ川島芳子がここで結婚し、溥儀も漱石も泊まったところです。もっと先の道沿いに、旧旅順工科大学があります。初代満鉄総裁の後藤新平は大連中心主義者でしたが、旅順に大規模な病院と工学堂(旅順工科大学)を設けて、「文装的武備」をねらいました。この堂々とした赤煉瓦建築はロシアの海軍兵舎を転用したもので、いまは中国海軍病院です。同じく、港近くの道沿いに見える緑の屋根は、中国に唯一遺るロシア式木造建築の旅順駅です。

 旅順の地は、初代の前韓国統監・伊藤博文を1909年(明治42)、満州北部のハルビン駅頭で狙撃、暗殺した韓国独立運動家・安重根が、裁かれ、処刑されたところです。安重根はカトリックの洗礼を受け、上海からウラジオストックにかけて国権回復運動を展開、義兵闘争を試みてきた義士として、韓国では英雄扱いです。学校を設立して国民教育にも意を注いだ知識人で、裁判に関係した日本人たちからも助命嘆願書が出たほどです。日本側の裁判所、関東都督府高等法院は石造2階建てで、そのまま旅順口区人民医院に転用されていました。その一角が日本軍の犯罪刑具展示館になっています。

 そこから1500mほど内陸側に入ったところに、安重根ら反日活動家を含む2000を収容した旧日露旅順監獄があります。正面に見える白大理石の2階建てがそうです。253室、1室に平均8人収容した東北地区最大規模のものです。右手の、赤煉瓦塀越に見える黒屋根の平屋が刑場で、30歳の安重根は犯行翌年の3月26日に絞首刑となっています。奇しくも、伊藤公暗殺の半年後、犯行当日の命日にあたります。
『鎌倉三日会会報』(平成22年度第2号)pp.18-20
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