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鴨緑江河畔にて、好太王碑の今昔
 この9月に国際日本文化研究センター(日文研)と中国東北地区(旧満州)の長春・通化・ハルビン三大学との共同シンポジウムがあり、その際、旧満州東南部、鴨緑江河畔の集安で見た古代高句麗遺跡の一つ、好太王碑の今昔をめぐってお話したいと思います。

朝鮮族の町・集安と鴨緑江の朝船

 旧満州の中国東北区にある吉林省集安市は、鴨緑江右岸沿いに広がる人口二四万の朝鮮族の多い中都市です。大都市の通化からは、高速道路で三時間程度離れています。川向こうは北朝鮮領の、満浦市など一市三郡と接する国境の町です。この数年の間に、ものすごい勢いで高層建築が並びだしました。それは世界遺産効果のためでしょう。鴨緑江を挟んで古代高句麗遺跡群が中国と北朝鮮の共同で申請され、2004年に承認されたからです。

 集安のホテルに夜着いて、仲間の韓国人学者ら三人で鴨緑江を見に行きました。初めこれがあの川?、と思ったところは鴨緑江に垂直に注ぐ通鈎河で、気持ちのよい河岸公園と夜店が合流点までつづいていました。「鴨緑江 中華人民共和国水路部」と刻んだ大きな石碑脇の右岸に立って、驚きました。長白山から流れ落ちる大河なのですが、川向こうをいくら見ても、真っ暗です。明かり一つ見えません。人家もない無人地帯になっているのか、と思いました。翌早朝、再度出かけてそうでないことがわかりました。白の家並みが低く四角い窓を開けて、緑の山々を背に結構つづいていましたから。

 目の前の大きな中州(筏登島)は人気もない北鮮領だそうで、中国側の下手河岸には遊覧ボートが10隻あまり並んでいます。上手の岸辺では、砧を使って洗濯する女たちが2、3います。朝の散歩をする人たちと行き交いながら、私たちは、堤防を左へ遡って、航道局集安港の鉄扉を抜け船着き場に降りていきました。まだ早いのでしょう、船番所で寝ていた男をたたき起こして、船を出してもらうことにしました。向こうの煙突あたりまで往復30分で一隻100元(1500円)、もっと先の中朝鉄道大橋までなら300元、鴨緑江の水で顔を洗いながら男がいいました。鉄橋までの中国側内陸部に高句麗遺跡の中心部があるのですが、安全を考えて近距離コースにしました。

 身支度を整えた男が、前夜来の雨を船底からかいだすのを待って、仲間二人と救命具を付けて乗り込みました。ここは中流域なので、川幅は80メートルもないでしょう。その中央線が北鮮と中国の国境線なのです。見つからなければ、脱北者たちが渡れないこともない、ゆったりとした川の流れです。ボートは川面にエンジン音を響かせながら波を蹴立てて上流に向かいます。私はカメラ片手にしげしげと北鮮側を拝見したのです。

 急な崖上にガード付きの舗装道路があるらしく、黒い人民服を着た男が2、3,自転車で走っていました。家々にはまるっきり人影はありません。約束の煙突からは、薄い煙が立っていました。稼働しているのでしょう、鉄工所か製鉄所、ということです。ダクトかパイプが絡みついた金属色の工場が飛び込んできました。人の気配もない音無の構えで、不気味でした。多分、北鮮側ではわれわれに銃口を向けて見張っているでしょう。観光時間には早いからです。数分停止しただけで、急いでボートは引き返しました。やれやれ、こちら側は「水上正宗江魚・江辺第一家」などというのんきな看板が林立する、改革開放の中国河岸です。これで一安心です。

 町中の北鮮政府直営という飯店で昼食をとりました。半年おきに服務員の女性たちが交代するそうです。外貨稼ぎのサーヴィスなのでしょう、けっこうな美人三人が客を誘ってアリランなどを歌い踊るのです。集安にはこういう店が二軒あり、店内は撮影禁止でした。最後に歌ったのは中国と組んで戦った朝鮮戦争当時の軍歌だそうで、にっくき米帝と韓敵をやっつけろ、とかいう歌詞だそうです。韓国人学者が喜んで唱和していました。

古代日本・倭の動向を証言する好太王碑

 午後、私たち一行は、『高句麗古墓壁画研究』を纏めている通化師範大学高句麗研究院所長の耿鉄華教授の案内で、真っ先に好太王碑を見ました。紀元4世紀に、朝鮮南部加羅の「任那」(みまな)が倭の属領となり、そこに軍事・外交の総督府である「日本府」を置いて、倭が百済や新羅など朝鮮南部を支配し北の高句麗に抗した、という『日本書紀』の記述が、この碑文から裏づけられると、戦後言われ、教科書にも載っていたものです。

 好太王碑は、紀元5世紀初頭、414年に、第20代高句麗国の長寿王(在位413〜491)によって建てられた、第19代父王の好太王(在位391〜412)紀功碑です。通称「好太王碑」ですが、遼東半島から吉林省、南北朝鮮に王国を「広開」(拡張)し、38歳で死んだ英雄王の事績が刻まれているので、別名を「広開土王碑」ともいいます。高句麗王国は、韓国の人気テレビ番組名でわが国でもお馴染みの大将名「朱蒙」(チュモン)が扶余国の王子という身分を抜け出て、紀元前37年に建国した北の強国です。朱蒙は五女山城などに拠りましたが、その息子、二代目の琉璃(ユリ)王が紀元三年にいまの集安に遷都し、鴨緑江中流右岸の平地に国内城を設け、さらに北方2.5キロの、長白山系支脈の一角に丸都(ガント)山城を設けて、防備を固めました。この山城のいまに残る石積みの見晴台に立ちますと、眺望の開けた彼方に、国内城址のある集安市街地が広がり、大河の白線が鈍く光って見えます。

 集安(古名は輯安)地区は、高句麗王国が西暦427年に遷都するまで、すなわち好太王の息子20代長寿王が鴨緑江左岸から南下した現在北鮮領の中心地、平壌にに都を移すときまで、高句麗の中心でした。高句麗王国が滅びるのは668年、いらいこの地域は統一新羅の域外にあったため廃墟になり、一五世紀の朝鮮文献に遺跡の記述はあっても、17世紀以来封禁地とされ、立ち入りが許されない辺境の地になっていたのです。

  私は碑石が野外に立つ写真を見ていましたので、立派な赤い瓦葺き、ガラス張りの楼閣(それも二代目)に入っているので驚きました。ほぼ長方形の高さ6.3メートル、見上げるほど大きい。底面の幅は1.34から2.0メートル、火山岩系の角礫凝灰岩で、ざらざらした表面を少し削って碑文が刻まれています。重さ37トン、石碑は厚い花崗岩の石板に載り、1500年余もこの場所に建ちつづけてきたのです。4面に1800字余あります。耿教授は石碑の問題の箇所などを手で指しながら、小一時間も熱弁を振るってくれました。撮影禁止なのですが、研究目的ということで、特別に許されました。日差しの関係で凹凸の影が碑文を見えにくくしています。向きを変えてあれこれ食い入るように眺めました。

 この石碑は倭の記述が5、6カ所あり、同時代の石上神宮の七枝刀銘文もあわせて、古代アジア史の貴重な生き証人のはずでしたが、日本軍部の朝鮮経営の口実にされるなど、現代史の中で翻弄されてきました。70年代に入って、在日古代史学者の李進煕教授によって、内外50部に上る好太王碑拓本比較から、日本陸軍による碑文改竄問題が提起され、旧植民地時代の感情も絡む剣呑な碑石に変わってしまったのです。とくに、第一面の八行から9行にかけての31文字の解釈が争点になりました。

 「百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯来渡海破百残□□□羅以為臣民」です。
これは日本では、「百済(百残は百済の蔑称)・新羅はもと[高句麗の]属民であって、ずっと[高句麗に]朝貢してきた。しかるに倭[日本]が辛卯[西暦391]年に海を渡ってきて百済[・加羅・新]羅を破って臣民にした」と読まれました。しかし李教授は、而の後の「倭」は「後」、辛卯の後の3文字は「不貢因」で、この文の主語は倭でなく高句麗であり、欠字の3箇所に「和冦新」が入っていたのが改竄されたとし、後文は「その後辛卯年から朝貢しなかったので[好太王は]百済・和冦・新羅を破り、これを臣民とした」が正しい、としたのです。これで「任那日本府説」の根拠が崩れた、というのです。しかし前後からあった倭と百済・新羅の三国の政治状況から、李教授らの釈文には無理があり、日中の学者の賛同はにわかに得られなかったのですが、それでも陸軍参謀本部による改竄作戦説までいわれると、沈黙する者も多かったのです。

 改竄説が間違いであることが明確になったのは、つい最近のことで、中国の若手研究者、徐建新氏の功績です。これは明治大学に提出された博士論文で証され、間もなく『好太王碑拓本の研究』(2006年2月刊、東京堂出版)となって公刊されました。

  改竄説を産んだのも、好太王碑発見のいきさつに日本軍が絡んでいたからです。
発見されたのは19世紀後半の1880年、清の年号で光緒6年、明治13年(その4年前という異論あり)、作業中の農民が、蔦や苔で覆われてい大石碑に気が付いたのです。その話を翌々年、清の役人で金石愛好家が知り、県知事とも相談して、碑面に牛糞を塗って乾かしてから焼かせ、刻まれた字(一字約12センチ大)を初めて見たということです。ざらざらした小石混じりの角礫凝灰岩で、焼損もあり、丈夫な紙がないと拓本は困難でした。拓本に代わって、双鉤(そうこう:碑文の字画の外縁を線でなぞって写し取り、後から回りを墨で塗りつぶす法)ではなく、墨鉤(ぼっこう:ざっと拓本をとって字形を赤字に描き、紙を当ててその形を墨で白く浮き出させる法)で複数部造られました。

 この数ヶ月後の明治16年秋に、日本の陸軍参謀本部の情報員、酒匂景信(さこうかげあき)中尉が現地の「地理政誌」を隠密裡に調べるなかで、先の墨鉤本一式を持ち帰りました。参謀本部はこの重要性に気づき、漢学者などを動員して解読、写真・釈文あわせて『會餘録』第五集として出版します。時に明治22年(1889年)、明治憲法発布の年です。朝鮮側はこのときまで好太王碑の存在を知りませんでした。

 李教授の改竄説と石灰作戦説は、現存する拓本の編年を周到な相互比較から組み立てたものを基礎としており、この推論自体は科学性豊かな論証でした。この酒匂中尉による酒匂本(いま東京国立博物館蔵)がまず一部改竄され、この改竄を隠すために、日本陸軍参謀本部は、日清戦争後の1890年代末から1900年代初めにかけて、2回にわたり原石の碑面に石灰を全面塗布して、文字を刻ませ、きれいな拓本にしたのだ、というのです。

 しかしこの改竄説があえなく崩れたのは、酒匂本以前の1881年の墨鉤本が2004年の北京売り立て会に出現し、これを先の徐氏が入手し研究したためです。徐氏は、酒匂本と突き合わせた結果、酒匂本には意図的な改竄はなく新出墨鉤本と中身が一致すること、石灰塗布は地元の中国人拓本業者の仕業で、きれいに見せて高額で売るためであったこと、この石灰化以前に原碑拓本が北京の拓工・李雲従によって造られ、北京大所蔵になっていること、などを明らかにしたのです。

 徐氏は石灰本の編年も独自にやり、私も読んだところ、見事な論著になっています。

 高句麗遺跡群は、あの高松塚古墳やキトラ古墳の装飾壁画の原型と思われる装飾貴族墓群(その一つを拝見しました)、丸都城・五女山城や大王塚・将軍塚などの王城王陵など、あわせて43カ所におよび、東西40余キロ、南北2〜5キロに広がっています。好太王碑はこの目玉の一つです。

 戦前の神功皇后遠征神話は否定されましたが、戦後は「任那日本府説」の根拠とされ、教科書にも載っていたのですが、日本陸軍の石灰大改竄作戦とやらで、歴史を捏造したと隣国からは激しい攻撃の的になって、教科書から消えて久しいのです。この日韓両国のわだかまりが、21世紀になってから、中国青年学徒の研究によって氷解したことは、東アジアの歴史研究が、新たな時代にはいったことを予感させてくれると思います。

『鎌倉三日会会報』平成21年度no3、2009、pp.2-8.
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