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出版ジャーナリズムの大先輩・高杉一郎さんのこと
 私がジャーナリズムの大先輩でもある高杉一郎さんにお目にかかったのは、一回だけである。最近になって太田哲男さんの『若き高杉一郎』の本を読んで、もっといろいろお聞きしておけばと思ったが、もう後の祭りである。じつは、私どものささやかな学会である形の文化会の幹事で、近年はブック・アートの世界を展開されている文教大学教授の中川素子さんには、しばしばお目にかかっていた。しかし、その中川さんが、『極光のかげに』を書かれた高杉さんの3番目の娘さんであることを知ったのは、ずいぶん後になってからである。そうと知ってから、父上がまだお元気なら改造時代のことを伺っておきたいと申し上げたのを、中川さんがよく覚えていて、ある夏の一日、軽井沢のはずれ、信濃追分の別荘にお尋ねしたのである。

 そこは大樹の茂みにひっそりと立つ閑静な平屋で、昼下がりの一刻を、中川さんの手料理に舌鼓を打ちながら談笑できたのは、私にとって貴重なものであった。高杉さんは80歳台末であったが、すこぶるお元気で、頭脳明晰、言語もはっきりされていた。自己紹介をかねて事前にお送りしておいた拙著『アインシュタイン・ショック』全二巻をよく読んでくださっていて、逆にこちらがいろいろと聞かれる場面も多かった。なにしろラッセル・サンガー・アインシュタインという世界的名士の招聘は、初期改造社の伝説的な大事業であって、とりわけその白眉が大正一一年末のアインシュタイン招聘であった。高杉さんは、その大事業の数年後に改造社に入社されていたのである。

 初期改造社の山本社長を支えていた編集同人は、横関愛造氏と秋田忠義氏のお二人で、京都には後に作家になる浜本浩氏がおられたが、すでに高杉さんの入社時には、この同人二人は山本社長と袂を分かっていく頃と思う。拙著の取材当時、横関氏は他界され、アインシュタイン招聘をドイツに渡って哲学者・田辺元氏とともに仕上げた秋田氏は、光学関係の会社の会長になっていた。その秋田氏に会ってうかがった山本評は辛辣で、「人を利用するだけ利用して放っぽりだす」というドライなものであった。これは、ラッセルが第三者に宛てた書簡で書いた山本評、「抜け目ない出版人」で「silly(ずるい)」というものに近いものであった。私は、そういう面も否定は出来ないが、あの改造社の大事業を考えたら、もっと肯定的な評価もあってよいと思っていた。したがって、関東大震災後、初期円本時代の改造社で雑誌『文芸』を担当され、山本社長に間近に接していた高杉さんの口から、その人柄や昭和初期の出版状況などをお聞きしたかったのである。

 山本氏については、出征後自分の家族に一銭の退職金も払ってもらえなかったにもかかわらず、高杉さんは一貫して好意的であった。山本社長の「ガラが大きいのが好き」と、独特な言い回しでも表現していた。学生時代の高杉さんはよく築地小劇場に通っていたというが、『改造』も読んでいた。その『改造』のイメージを、山本氏の二度にわたるシベリア紀行の文などと重ねて、日中日ソ関係に敏感な雑誌という感覚をもっていたという。ご自分の「今日あるのは改造社の山本社長のおかげ」と、繰り返されていたのを記憶している。

 編集者としての高杉さんには、鋭い編集感覚があったと思う。あのきわどい軍国主義時代に、たぐい希な平衡感覚を貫いていったからである。支那事変の起こる昭和12年の『文芸』付録に、日本で初めての「現代支那文学事典」を付け、竹内好氏らの中国文学研究会の人たちと太い絆を作っている。中国通の山本社長の強い支持があってのことであろうが、高杉さんならではの企画である。高杉さんはアメリカの教育学者デューイに終始共感されていたが、そのデューイにコロンビア大学で胡適が教えを受けていたとか、星ヶ岡茶寮で、山本実彦社長が戦前、絶交状態の郭沫若と郁達夫の二人を仲直りさせたのに立ち会ったとかいう話なども、別荘でうかがった。

 高杉さんは、大正デモクラシーの空気を存分に吸われた、徹底的な教養人だったと思う。語学力も表現力も抜群であった。『極光のかげに』を読んで、こんなに文学性豊に、あの過酷なシベリア抑留生活を綴ったものは他にはあるまい、と内心舌を巻いた。日本人将兵60万人の抑留を「バビロンの捕囚」に喩え、民族流亡の現実を直視したものだが、ヒューマニズムに満ちた筆致は、編集者の冷静な目に裏打ちされていた。帰還後の長い戦後生活を綴った『征きて還りし兵の記憶』(岩波書店)を署名付きで頂いて、高杉さんの華麗な編集時代をなお詳しく知るにつけても、その思いは強かった。

 知人の荒川紘さん(静岡大名誉教授)に、高杉一郎さんにお会いしたことを伝えたら、『静大だより』という昭和46年の新聞を送ってきてくれた。そこでの教養部長小川五郎氏(実は高杉さんの実名)の発言が面白かった。静大2640人の学生に一般教育の教官はわずか55名、教官1名あたり学生48人、ところが専門部では教官1名あたり6.1人、農学部では5.4人という。教養部というのは「要するに一般教育を二年間に圧縮して、量産式に、安上がりになんとか格好だけつけようという計画であることがいやというほどわかったのである」と書いている。静大に限らず、その後の教養部解体、早期専門化という悪しき大学学制改革で、日本人大学生の質が悪化してしまうという現実を、大正デモクラシーをくぐり抜けた教養人、高杉さんは危機感をもって予見されていたのである。
2009年 『高杉一郎・小川五郎 追想』(私家版) 掲載
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