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インド八大仏蹟、悪路の旅で気づいたこと
 この冬、雨期をさけた乾期の二週間、夫婦でインド東北部のガンジス川流域からネパール南部を巡ってきました。私はインドは40年ぶり2回目、妻は初めてでした。

 今回は、まずバンコックで乗り換えてインド中東部のコルカタ(カルカッタ)にはいり、そこから、汽車とバス・ジープを乗り継いで、穴ぼこだらけ、ずたずたのインド式ハイウエイを走って首都ニューデリーに抜ける、というインド八大仏蹟の旅でした。いまでも目をつむると、悪路の連続に、からだは激しく突き動かされ、揺れ戻される思いです。

 私たちは小さな旅行社の企画にのったのですが、仲間は10人ほどでした。インド僻地の旅は、あとで書きますように、障害物競走さながらのハプニング続きで、それこそ、旅慣れた旅行ガイドの手を借りないと、とてもとても脱出できない場面に出くわすものです。
 
 しかしインドの広大な異次元体験は、それを補って余りあるものでした。広大な原野や山林を染め上げて落ちる大きな夕日を、幾度となく拝みましたし、ときに地平線の彼方まで広がる菜の花畑に出て、「月は東に日は西に」の蕪村体験をインドで追認しました。サトウキビ畑も多く、とりわけまだ柔らかな穂先が低く輝くシルエットになって、黒い水牛や山羊たちの背を映し出す光景は、一幅の画のようでした。

 インド八大仏蹟は古代のビジネス地帯

 はじめに、八大仏蹟を説明しておきましょう。
 ふつうの仏蹟巡りでは四つがよくあげられます。母のマヤ夫人が里帰りの途中で釈迦を生んだ「生誕の地」ルンビニ(ネパール領側にある)、成人して人生に悩み出城・出家して六年間の苦行のすえ、村娘スジャータの乳粥で生気を取り戻し、あの菩提樹の下で悟りを開いてブッダ(目覚めた人、覚者の意味)になったという、35歳における「開眼の地」ブッダガヤー、開眼後、伝道を決意し、直線距離で200キロ離れた地で初めて五人の弟子に説法をしたという「初転法輪の地」サールナート(鹿野苑。ここで出土したアショーカ王石柱の頂上にあるライオン像がインド国章になる)、40年以上の伝道の末、沙羅双樹の下に横たわり80歳で最期の涅槃を迎えた「入滅の地」クシーナガル(マッラ族の都であった)の4つで、これを、一般に四大仏蹟と呼んでいます。

 さらにこれに欲ばって、もう4つの仏蹟を加えて八大仏蹟にしているわけです。
 すなわち、サーキア(釈迦)族の太子ジッタルタとして生まれ育った「生育の地」カピラヴァスツ(カピラ城、ネパール説・インド説の二カ所ある)、のちの仏典(法華経や浄土三部経など)になる経説を唱えた地・霊鷲山などのあるマガダ国の都のあった「布教伝道の地」ラージギル、また隣り合わせにあるサヘート・マヘート、すなわち、祇園精舎で知られる「夏(雨)安居の地」サヘートとコーサラ国の首都シュラヴァスティのあった「布教伝道の地」マヘート、ブッダ最後の旅で訪れた、人類最古の共和制政治を行っていたリッチャヴィ族の都で、遊女アンバパーリーの心からなる接待を受けたことでも有名な「布教伝道の地」ヴァイシャーリー、最後に、ブッダが自分を生んで七日後に亡くなった母マヤ夫人に自分の説教を聞いてもらうべく、天上に昇り最高の真理を伝え、ふたたび帝釈天の案内で地上に降り立ったという「地上降臨の地」サーンカーシャ、の4つです。

 今回訪れた仏教関係の史蹟は、八つどころかほかにもあって、かつてブッダも滞在し、その後大きな世界最古の仏教系大学になったナーランダー(法顕や三蔵法師もここで学ぶ)、世界最大の高さを誇るケサリアのストゥーパ(舎利塔)、さらには仏教系三大美術館と呼ばれるコルカタのインド博物館、パトナー博物館、ガンダーラー美術にも影響を与えたというマトゥーラ美術の宝庫、も見学できました。

 じつはお釈迦さんゆかりの仏蹟の多くは、ガンジス・ヤムナ両河流域に点在し、古代北方交易ルートの一端にありました。行程の範囲は、古代の二大王国、コーサラ国とマガダ国に挟まれ、ヴァッジ族やマッラ族、サーキア族など有力部族国家群が対峙する直線距離にして800キロ、たとえて言えば、東京・広島間ほどの範囲にあるのです。全部で大小16カ国あって、離合集散を繰り返していたと見られます。

 インドは文字通り奥が深いです。いま日本企業も進出しているハイテク地帯は、インド中西部から南西部にかけて、ムンバイ(ボンベイ)、プネ、ハイデラバード、バンガロール、チェンナイなどにあるのですが、お釈迦さんの歩かれた仏蹟の道はハイテクなどとは疎遠な、インド東北部の化石時代さながらの集落点在僻地にあるのです。いまそこは、インド最貧といわれるビハール州を中心に、ウッタル・プラデーシュ(UP)州にかけて広がっています。私はこの仏蹟地帯を巡りながら、往時は主要な北方交易ルートにあったのですから、それこそ活況を呈していた富裕地域であった、と考え直さなければならないことに気がつきました。

 かつては、ガンジス・ヤムナの両大河には、鉄製品や穀物・乳製品、衣料品などの交易品を満載した船の数々が往来し、また街道筋には、雄牛に牽かせた二輪荷車の長い行列などで賑わっていたと考えられます。すると、老病死の無情を悟って出城した釈迦族の王子ジッタルタが、ブッダとして布教した区域は、まさに農工商で活況を呈していた古代ビジネス地域である、と見なければならないことになります。

 仏滅後150年ほどして、アレクサンドロス大王の侵攻で大混乱に陥ったインドは、豊かな穀倉地帯を背後にもつマガダ国を足場にマウリア王朝が樹立され、統一国家へと進みます。この王朝三代目にあたるアショーカ王は、やがて武力征服のはかなさと仏教の慈悲行の理想に深く感化されて、ブッダ関連の地に、仏教普及を願って10本近い石柱を建て、仏塔を整備しました。

 それにしてもインド的混沌の旅よ

 インド的混乱の旅は、まずバンコック経由でコルカタ(カルカッタの名が懐かしい)に入って始まりました。駅近くのマーケット火災と空前のデモ騒ぎ。デモ参加者を屋根上まで満載したバスが、前後左右に押しあっていました。なんとかわれわれのバスは、逆方向の橋から脱出して、夜行列車に飛び乗ったのですが、それからもピケとお祭とお偉方には勝てないことを何度も思い知らされました。

 ベナレスの沐浴地からいよいよ仏蹟巡りに入ってまもなく、ピケに遭いました。プロパン業者がガスを薄めているとかで、緑のボンベを五、六個、道に並べて村人たちの抗議です。外国人だからお許しを、とガイドがいっても、ガンジーもどきの指導者は、聞く耳を持ちません。
村祭りも予測できないのが悩ましいです。中心部を抜ければ、旧マハラジャ(藩王)の別荘ホテルまで数キロというところで、人と御輿・屋台のカオスにはまりました。初めは写真を撮ったり、店先をのぞいたり、チャイを飲んだりしてましたが、3、4時間たち、深夜になっても動けない。けっきょくホテル手配のジープ一台に10人がぎゅう詰めになって、なんとか脱出したのです。

 集落の中心部には、どこにいっても埃だらけの市場があります。人と牛と車でごった返し、果物や豆類、衣料が並んでいます。舗装もすぐ切れ穴ぼこが続く街道は、すべてそういう市場に集中し、そこからまた四方に発散するようになっていますから、中心部の市場は混沌たるカオスの渦になっています。交通信号などはついぞ見たこともありません。「Horn, please!」(警笛どうぞ)と、どの車の後にも貼ってあります。急ぐものは、やかましく警笛を鳴らしながら、威圧して道を譲らせ、反対車線だろうが、動けるときには驀進し、よく横転しておりました。
 お偉方のお通りにも恐れ入りました。もう宿泊予定のブッダガヤのホテルに近いというのに、車列が動かない。州知事が視察にくるとかで、前もって交通規制しているのです。宿泊先のホテル経営者が自家用車で迎えにきて、この顔パスの先導で反対車線を、私たちのバスは羨望の視線を浴びながら、ゆうゆうと逆行して辿り着けたのです。

 街道の橋もよく流されています。狭い迂回路は見つかっても、バスだと穴にはまってひっくり返る心配があります。そこで二台のジープに分乗して、農道を飛び上がりながら何時間も走って、ケサリアの大ストゥーパに辿り着いたものです。途中、ピケの練習のつもりでしょうか、子供たちが竹ざおを道に渡して何度も通せんぼしていました。

 思い返せば、私は、最後のオオカミ少年が現れたというニュースを聞いて、インドに取材に行ったのが最初の海外体験でした。40年前のことです。ニューデリーから小さな飛行機に乗って一時間、UP州の州都ラクノーに降りたって、不用意に空港建物を出たとたん、いい鴨とばかりに、何十台という黒いリキシャを牽く目だけ白い真っ黒な一群に襲撃されて肝をつぶした思い出があります。オオカミ少年を収容先の州立病院に取材して、「私はオオカミ少年に会った」と、週刊誌の記事にしたのですが、そのラクノーにも今回寄りました。ここはUP州の州都で、いまや農村的貧困とは無縁な大都会でした。

 しかしすぐお隣のビハール州では義務教育もないのです。子供は親の仕事を手伝うよう定められています。したがって乞食の子は乞食になるわけです。

 仏蹟もそこに至るインフラも、整備以前、観光以前です。ハイテク・インドの光が射さない、ここは濃い影の部分でした。ブッダの光が届くのはいつのことでしょうか。
2008年7月 『三日会 鎌倉』平成20年度第1号 pp11-15 掲載
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