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インド仏蹟に見る最大/最古の仏塔  The Largest/Oldest Stupas observed in India
図1 ケサリアの大塔全景
図2 同塔の解説用側面図
図3 頭部を欠く釈迦像

 2008年の冬、インド東北部からネパール南部を巡ってきた。インドは40年ぶり2回目だが、今回は、雨期をさけた乾期の2週間、東のコルカタ(カルカッタ)から、バスとジープを乗り継いで、穴ぼこだらけ、ずたずたのインド式ハイウエイで首都ニューデリーに抜ける、8大仏蹟の旅である。いまでも目をつむると、悪路の連続に、からだは激しく突き動かされ、揺れ戻される思いである。

 夜遅くまで走っていたので、広大な原野や山林を染め上げて落ちる大きな夕日を、幾度となく拝んだ。地平線の彼方まで広がる菜の花畑に出て、「月は東に日は西に」の情景も体験した。サトウキビ畑の、まだ柔らかな穂先が低く輝くシルエットになって黒い水牛たちの背を映し出すとき、ああインドにいるのだ、と実感した。

 釈迦の生まれたルンビニ(ネパール領にある)、あの菩提樹の下で悟りを開いたブッダガヤ、5人の弟子に初の説法(初転法輪)をしたサルナート、涅槃(成仏して脱輪廻の身になる)の地クシナガルが四大仏蹟と呼ばれる。さらに、生まれ育ったサーキア(シャカ)族の首都カピラヴァスツ(カピラ城、ネパール・インド説の2カ所ある)など布教伝道の名跡の多くは、ガンジス・ヤムナ両河流域、古代北方交易ルートの一端、インド東北部に点在する。

 そこはまた、古代の二大王国、コーサラ国とマガダ国に挟まれ、ヴァッジ族やマッラ族、サーキア族など有力部族国家群が対峙する直線距離で800q、東京・広島間ほどの範囲にある。往時は、鉄製品や穀物・乳製品、衣料品などの交易品を満載した船や、雄牛に牽かせた二輪荷車の長い行列で賑わっていたことだろう。老病死の無情を悟って出城したサーキア族の王子ジッタルタが、ブッダとして布教した区域は、まさに農工商で活況を呈していた古代ビジネス地域である。仏滅後150年ほどして、インドをほぼ統一したアショカ王は、ブッダ関連の地に、仏教普及を願って10本近い石柱を建て仏塔を整備した。

 それから2500年後。この仏蹟地帯はいま、インド最貧といわれるビハール州を中心に、ウッタル・プラデーシュ(UP)州にかけてある。ハイテクとは疎遠な、化石時代さながらの集落点在地域。集落中心部には、かならず埃だらけの市場がある。どこも人と牛と車でごった返し、露天や半壊の店先には山のような果物や豆類、衣料が並んでいる。道という道は舗装もすぐ切れ泥濘と化す。そういう主要街道が市場に集中し発散するから、そこは、カオスの祝祭状態になる。交通信号などはついぞ見たこともない。「Horn, please!」(警笛どうぞ)とどの車の後にも貼ってある。急ぐものは、やかましく警笛を鳴らしながら威圧して道を譲らせ、反対車線だろうがお構いなしに、動けるときには驀進し、よく横転する。

 そういう仏蹟地帯で、インド特有な初期仏塔の数々を見てきた。仏塔は墳や塚を意味する「ストゥーパ」(日本では墓地を飾る卒塔婆になる)、ブッダの舎利を納める墳墓をさす。原始仏教時代は、仏像などは造られず、在家仏教徒が中心になって作った舎利塔が、僧院とは別に、ブッダのシンボルとして信仰の対象になった。「われ亡き後はわが教えし法と律を師とせよ」と言い遺したのだが、ブッダの舎利が八分され、舎利を納めた瓶や炭もあわせて、それぞれのゆかりの地で競って祀られた。瓶塔や炭塔(これらを舎利塔と区別して資具塔ともいう)も入れると計10塔がまず建てられた、といってよい。

 この世界最初の舎利塔の一つがヴァイシャリの古塔であり、世界最大の仏塔といわれるものが、それとほど近いケサリアの仏塔である。

 仏塔でかなり古い紀元前1世紀のサンチーの大塔は原形をとどめているので有名だが、半円球の覆鉢(アンダ)を基壇(メーディ)が支える形である。覆鉢の上には平頭(ハルミカー)という四角い箱がのり、さらに傘(チャットラ)がつく。さらに全体を玉垣状の欄楯(ヴェーディカー)が取り囲む。しかし私が見たものは、もっと初期のものであったり、半ば崩れたものであったりした。

<ケサリアの大塔> 商業都市ヴァイシャリからケサリアへの街道は、暴れ川のせいで、橋がよく流される。おまけにプロパン・ガスの値上げ反対の村人たちが緑のガスボンベ5,6本を道に並べてピケを張っていた。狭い迂回路はあるが、バスで行くとなると穴にはまってひっくり返る心配がある。一行10人はドライブ・インでジープに分乗して、農道を抜け、川の堤を飛び上がりながら1時間も走った。ピケの練習か、子供たちが竹ざおを道に渡して通せんぼしていた。やがて原野の一角に小高い丘が見えてきた。赤い焼成レンガ作りのケサリア大塔である。

 なるほど大きい。ジャワ島のボロブドールよりも高く、高さ32.5m、底部直径188.00mもある。この高さは古形を遺すサンチーの仏塔の2倍もある。しかし1861年に始まるカニンガム隊の調査で、本来はもっと高く地上52m、底部直径は225.00mもあったという。すなわち、舎利を納める頂部が高さ20.25mの焼成レンガ製の覆いを漆喰で固めた円筒形(直径22.00m)をしていたが、1934年の地震で崩れた。いまは頂部に高さ9.75m分の内部レンガが露出し、盗掘孔を見せている。また、その後の河の氾濫で底部の2層分9mが泥土に覆われてしまった。近年の発掘保存修理で、その全容が少し明らかになってきた。

 この地中のもいれた全体の断面図を、現地管理人が図面で示してくれた。
 それを参照して全体を見ると、乳房型頂部のストゥーパを全8層の基壇(階段状円錐ピラミッド型)が支える。しかし下2層の基壇は埋まっていて見えない。基壇の4層目(地上に見えるものでは2層目)から6層目までは、テラコッタの仏像1体を祀る仏龕が3室連なる横穴のユニットが、東西南北とその間の八方向に設けられ、地底にある2層目も同様と推定されている。それが7層目(19世紀の発見当時この基部から上の部分が地上に遺っていた)になると、東西南北の四方だけになり、8層目との境に、レンガ製連結丸帯の装飾層が取り巻いている。8層目には東西南北に(ユニットでなく)仏龕1個だけが配置されている。

 仏像はテラコッタ製釈迦像で、首や上半身が欠けているが、蓮華坐であり、手は右手が大地に触れる触地印か、両手を上向きに重ねた瞑想印である。その点、南方系の上部座仏教建築と共通性があるので、論議を呼んでいる。

 ケサリアはビハール州イースト・チャンパラン地方の南西部、ガンダク川東岸にある。チャンパラン地方は、マハトマ(「偉大な魂」の意味)ガンジーが、1917年、イギリスの圧政に苦しむインディゴ栽培園の労働者を救済するため、非暴力と不服従の集団行動、サティヤーグラハ運動で初めて勝利した、記念すべき地である。

 ブッダは最後の旅で、ヴァイシャリを出て北西に向かい、愛弟子アーナンダと川沿いの東堤を歩いて、このケサリアで信者たちに最後の別れを告げ、涅槃の地クシナガラに向かったといわれる。ケサリアは、ヴァッジ族の主要部族であったリッチャヴィ族の地である。ヴァッジ国は、世界最初の共和制連合国家として知られている。ケサリアの仏塔は、原型はレンガの大きさから古いものとされるが、アショカ王がまず建て、8世紀にかけて拡張装飾されたとされる。

<ヴァイシャリの八分舎利塔> リッチャヴィ族の首都ヴァイシャリは、ケサリアから南西に48q、マガダ国の古都パータリプトラがあったパトナからは、ガンジス川を渡り北55qにある。ヴァイシャリは、ブッダ出城後の最初の訪問地であり、最後の旅でクシナガラに向かう最終説教地であり、また、仏法に帰依し教養もある遊女の食事を受け、弟子たちにおのれの寂滅を予告した地でもある。さらに、ブッダの前世を綴る後代作のジャータカ物語(本生譚)によれば、ブッダが菩薩であった時、この王国を支配したという。ブッダの同時代者、ジャイナ教の創始者マハーヴィラもここの出身だし、ブッダ寂滅100年後には、ここが第2回仏典結集(経典編集の集まり)の地になった。

 リッチャヴィ族は涅槃を迎えるブッダから托鉢椀を記念に与えられ、葬式後に仏舎利が八分されてその一つを持ち帰った。その八分仏舎利を祀った場所が、1958年の発掘調査から、ヴァイシャリ郊外の、ルクソヴィア溜池とラジャヴィシャル・カ・ガルトの間にある、高さ0.6mほどの小丘であることが突き止められ、問題の舎利容器も見つかった(ケサリアの大塔ではまだ不明である)。

 この舎利塔の所在地は、アショカ王建立の高さ11.0mの石柱が建つ仏蹟クタガルシャーラから少し離れている。石柱周辺の仏蹟は、ブッダがしばしば雨期をさけた夏安居の場所であり、猿王から蜂蜜入りの椀を捧げられたという伝説の地でもある。いまでも尼僧たちも受け入れた卍型の僧院遺跡や池などが見られる。

 問題のリッチャヴィ族の舎利塔だが、遺構として大きな覆いに保護されていて、丸い溝のある遺構だけしかない。調査報告では、紀元前5世紀の当初は、直径8.07mの土饅頭状覆鉢であったが、紀元後2世紀までのマウリア、スンガおよびクシャン王朝期に4回修復された。3回目の時、焼成レンガを使って全体が覆われ、直径12.0mに拡張されたという。この頂部にサンチーのように平頭部や傘がたっていたか不明だが、中心柱はあったという。

 インド中世黄金期のグプタ朝やマウリア朝の傑作彫刻で知られるパトナの博物館で、発掘されたリッチャビ族最古の仏舎利を特別拝観した。二階の鍵付き鎖戸の奥に、照明を浴びて蓋付きの石製丸壺型容器が飾られていた。ひびが走っている。発掘当時すでに1/4しか内容物がなく、3/4はアショカ王が仏舎利を全国に再配分するために取り出したとされる。仏舎利らしい灰土の副葬品は、小巻貝1個,ガラス玉2個、金製の薄葉1枚、刻印入りの銅貨1個。まさにその後の舎利信仰の原点にある聖遺物である。
2008年 『形の文化研究』第4号 掲載
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