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科学の中の和洋折衷
 明治近代化の中で、西洋の制度や科学技術を吸収する一方、日本人としての精神的矜持はもちつづける、という意味で、「和魂洋才」が強調された。しかし西欧の精神的所産を体得するには、洋魂にも十分な目配りがなければかなわない。とくに近代科学は西欧の一角で、ギリシア・ヘレニズムの伝統とキリスト教的土壌の上に開花結実した17世紀科学革命の所産だから、生まれはきわめてローカルなものである。それがなぜ普遍性を持つのか、という問題意識、つまり「洋魂洋才」に徹し、それを突破する覚悟が日本の受容者の側になければ、「和魂洋才」といったって、木に竹をつぐ類になりかねない。

 竹といえば、日本産の竹で世界的な事業化に成功したエジソンの白熱電球は、さしづめ和洋折衷の一例、「洋魂和材」の産物であった。

 真空中で細い白金線に電気を通すと、その電気抵抗で白熱光を発することを見つけたのは、イギリスのハンフリー・デーヴィーだが、これを電球にしようと、多くの発明家が参入した。高価な白金の代わりに、安価な植物繊維の炭化物が求められた。ヤナギの枝や木綿糸を炭化フィラメントにして光らせることはできても、長続きしない。アメリカの発明王エジソンが、弟子たちを世界各地に派遣して、樹脂成分が少なく、丈夫な並行繊維をもつ植物を探させて、結局、京都男山の石清水八幡宮裏の真竹(マタケ)が最適であることを突き止める。こうして1880年(明治13)、カーボン電球の実用化に成功する。日本産真竹フィラメントを使った白熱電球時代は、本格的なタングステン電球登場まで約五年つづいた。竹の本家であるわが国では、工部大学校出身の藤岡市助らがまずアーク灯を点して六年後の1890年(明治二三)、エジソン式竹電球一二個を作るのだから、エジソンに後れること10年。後追い技術立国の典型であった。  和洋折衷というと、よい意味ではいわれないが、近代化に忙しかった明治科学者の多くは、そんな悪口を聞く余裕もなかっただろう。国際競争の場に立とうとしたとき、そもそも日本人に科学ができるのか、と真剣に悩んだものである。その典型が、後に物理学会の雷親父といわれた、若き日の長岡半太郎である。1882年(明治15)帝国大学に進むが、まもなく病気で一年休学、その間東洋人に研究能力があるかどうかで悩み抜いた。そして磁石・印刷・火薬の三大発明を生んだ古代中国科学の成果を学ぶことで、やっと自信を取り戻し、物理学科に進むのである。科学の自立化を目指し奮闘した第一世代である。

 長岡の出身は、長崎県の大村、初のキリシタン大名大村純忠の領地で知られ、血生臭い殉教の悲劇が繰りひろげられた地でもある。幕末以降、鬱屈した葛藤の中から爆発したように現れた異才が、科学畑の長岡半太郎と医学畑の長与専斎であった。

 専斎は日本最初の牛痘ワクチン使用に踏み切った長与俊達の孫である。適塾で学び、ポンペに師事し、岩倉使節団に随行し、2年間欧米を視察した。その後、初代衛生局長としてわが国の医療・衛生制度の確立に敏腕を振るった。「衛生」の語も専斎の造語である。

 しかし医学栄養畑では、とくに陸軍における脚気多発対策が焦眉の急の問題になっていた。森鴎外が主宰した脚気予防調査会は、失敗に失敗を重ねた。農芸化学者の鈴木梅太郎も参加し、白米食という日本独自の食物に注目したのだが、鴎外始め多くの医学者は未知の細菌を病因とする意見が強く、農学者梅太郎の意見は傍流に押しやられた。しかし梅太郎は、ドイツ留学時代の師化学者フィッシャーの忠告を忘れなかった。「西洋の真似をするな。日本独自の課題を探せ」であった。梅太郎は、諦めずに動物実験を重ね、白米食では捨てられてしまう日本独自の米糠に、動物を活性化する未知の栄養素があることを突き止め、1910年(明治43)にこの抽出に成功する。「オリザニン」の発見である。これが脚気予防に絶大な効果があることを明らかにした。惜しいかな、国内批判派封じにその実用化を急ぎ、持病もあって海外発表が遅れた。翌1911年に、まったく同じ物質に「ビタミン」の名を与えたのがポーランドのフンクであった。科学研究における優先権が重要であるという認識が、当時の日本人科学者には甘かったのである。 長岡半太郎は赴任したての若いスコットランド人教師ノットの指導で、磁歪(金属が磁力で歪曲する現象)研究を始め、ドイツの原子論者ボルツマンの下に留学、1900年の世界最初の万国物理学会では、長岡は磁歪の招待講演をこなし、キュリー夫人、ラザフォード、ポアンカレにも会って、いまや国際的研究の自信を深めた。

 長岡の有名な土星型原子模型は、1903年(明治36六)東京数学物理学会に発表、引き続いて英独の国際的な学会誌に投稿、掲載された。すでに電子が発見され、X線の登場で、原子構造研究が始まった。電子は電気的に負だから、電気的に陽のものが中和しているはず。そこで、ケルヴィン卿や弟子のJ.J.トムソンのように、原子を電子入り葡萄パンよろしく、電子が陽電気の球内を自由に動くなどとしていた。ところが長岡は、土星リングの安定性に眼を向けて、中心の陽電荷粒子の回りを電子たちが取り巻く、有核モデルを数学的に仕立てたのである。日本人の最先端分野への学問的参入が始まったのである。ただし長岡モデルは、中心の核が土星のようにかなり大きい、と仮定していた。

 ラザフォードは、長岡モデルの8年後、1911年にα粒子とβ粒子を金属にぶつける衝突散乱実験から、原子は、その中心に大きな質量をもつがごく小さい陽電荷の原子核と、その回りを回る負電荷の電子群からなることを明らかにした。これで長岡モデルが確立したといえそうだが、実際にはそうはならなかった。ラザフォードは実験後に長岡モデルを知ったと主張し、「東洋人のモデルとは無関係」とした。いまだったら、こういう主張は許されなかっただろうが、人種差別がほの見える発言であった。その後、長岡は、高圧放電によって水銀を銀に変えるという水銀還元事件で物議を呼んだ。寺田寅彦・石原純といった第二世代を継ぐ第三世代の湯川秀樹がノーベル賞受賞のニュースを聞いて亡くなった。  和洋折衷研究でドエライ成功を収め、国際的に名を売ったのは高峰譲吉であった。失敗事業から強運にも、人生満帆の薬、強力消化薬タカジアスターゼを発見するのである。

 譲吉は、加賀藩御典医長男として英才教育を受け、藩官費生として長崎に出た。さらに京の兵学塾で英学を修め、工部大学校を卒業、3年の英国留学でスコットランドのグラスゴー大学に学び、明治政府農商務省のエリート官僚となった。30歳のとき、ニューオーリンズで開かれた万博に派遣され、南部出身の一八歳の美女キャロラインと知り合い、3年後には華々しく結婚、これが譲吉の事業開運のきっかけとなった。

 5年で役人生活を見切り、人造肥料会社の経営にあたる一方、まず東京で私設の製薬実験室を興して、ウイスキーを造ろうとして、アルコール発酵の研究に取り組んだ。ウイスキーは蒸留酒で、日本酒は醸造酒である。味もアルコール濃度も違うが、最初の作業がアルコール発酵であることには変わりない。そこで輸入技術に飽きたらなかった譲吉は、独自な技術で打って出たのである。すなわち、ウイスキーでは手間のかかる麦芽(モルト)の発酵酵素ジアスターゼを使っていた。麦の芽を育てるには広い畑と半年に及ぶ育成期間を必要とする。そんなことなら、わが国の味噌や酒でなじみの米麹のジアスターゼで、ウイスキーを造ったら、と思いついたのである。高峰元麹法である。ふすまかトウモロコシが高価なモルトの代用になる、という譲吉のアイデアに飛びついたアメリカのウイスキー業者と、一家を上げてアメリカに渡った譲吉とで、共同開発し成功したかに見えたのだが、モルト業者の迫害にあって工場は放火され、あえなく4年で挫折する。

 しかしこれにはとんでもない副産物があった。澱粉消化(溶解・糖化)作用の特に強い米麹菌の分離培養に成功、そこから強力消化酵素が抽出できたからである。糸状菌アスペルギルス・オリゼという。その消化作用は目覚ましく、重量あたり150倍の重量の澱粉を、たった10分で消化するほどであった。「タカ」(強力)をジアスターゼにつけて、タカジアスターゼと命名、米国特許(1894年)を得て、大ヒット消化酵素薬となった。日本での製造発売のため、三共商会(現三共製薬)が設立された。 怪我の功名であった。「秋風やひびの入りたる胃の袋」と吟じた胃弱の漱石も、タカジアスターゼを愛飲した。

 1900年(明治33)夏には、助手の上中啓三の協力で、副腎から止血有効成分を結晶として単離することに成功、アドレナリンと命名、特許を取った。これは、世界最初の内分泌物質(のちホルモンという)の副腎髄質ホルモンであり、譲吉はホルモンの産みの親となった。今日でも昇圧剤・止血剤として欠かせない有力な薬剤である。

 譲吉が活躍した舞台はいずれもアメリカであった。ノーベル賞級の研究と発明に橋架けた、ベンチャー型企業家であった。アドレナリンの発見で、1912年(大正元)帝国楽士院賞を受賞し、翌年には同学士院会員になった。日米間の民間外交に尽力し、国民研究所構想を提唱して、今日の理化学研究所の基を創った。
『NHK知るを楽しむ歴史に好奇心』2007年10月11月号、pp.156-161.掲載
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