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「ふすま」に透かし見る日本文化論
 この瀟洒な本『ふすま』が贈られてきた春浅く、私は急ぎの仕事も放り出して一気に読んだことを思い出す。半切れほどの和紙の、「1997年立春」とある挨拶文にはこうあった。…表具師の父、一太郎との対話を含め、日本の住居のしつらいとして千年にもおよぶ「ふすま」とは、日本人にとって何なのか、子供の頃の記憶や文化の記憶をたどりながら考えてみました。… 何よりも、現代工業デザインの先端をいき、具体詩の世界も開拓されているあの向井周太郎氏が、一徹な表具経師職人のリーダー一太郎氏を父君にもたれていたとは。私はこの一文を読んで、意外だが腑に落ちるこの父子の取り合わせに、興味をそそられたのである。
 しかもテーマが、表具の一つと考えられる「ふすま」である。かつては日本人の文化と生活から切り離せなかった襖だが、いまでは、和洋折衷のわが家を見回しても、僅かに二階奥の和室と納戸の間仕切りに三枚見られるだけである。障子(あかり障子で建具にはいる)と比べ、襖(ふすま障子で表具にはいる)はいま一つ間遠になり、いまや地方の旧家や寺院や宮殿の美術品として遠景になりつつある。この本を手にして、私はよき日本文化の象徴としての襖に郷愁を覚えたのだが、しかしその郷愁の底に、私たちが見過ごしていた日本文化の古層がいく層にもなって横たわっていることを、改めてこの本から教えられたのである。

 本書は、全体の三分の二が周太郎氏のふすま文化論で、後は職人気質のうちにも丁寧な言葉遣いでやりとりする親子対話になっていて、文字通り父子の共著なのだが、あれから半年ばかりを過ぎたころ、父上の表具師名人向井一太郎氏が他界された。父上の訃報を告げる新聞各紙にも、全国表具経師内装組合連合会会長、東京表具高等職業訓練校校長といった肩書きが出ていた。したがってこういう希有で幸運な組み合わせは、本書が最初で最後になってしまったのである。

 表具師・経師の仕事は、襖、屏風、衝立、額、掛軸、巻物、経本、和本類、壁・天井張り、障子・笠張りなどに及ぶという。しかも鉋、鋸、鑿などの木工具を使っての繊細な仕事なのだが、基本的には糊で和紙を幾重にも張るという技に集約されている。一太郎氏はその襖に、空調設備を考慮した形式を導入したり、骨の四隅板を改良して強度を高め、また引手の高さを低くするなど、数々の創意工夫をもたらし、「向井流ふすま」を作り上げてきた。こうして吉田五十八、谷口吉郎、村野藤吾、清水一、大熊喜英など多くの建築家に認められ、設計事務所・工務店などに表具を委されるという、絶大な信頼を勝ち得てきた。手がけられた作品は、赤坂迎賓館、外務省公館、池上本門寺、歌舞伎座、新橋演舞場を始め、各種美術館、有名料亭、吉田茂や梅原龍三郎など有名人の私邸等々に及び、数えるのも骨であり、詳しくは巻末の「向井一太郎表具製作譜抄録」に譲る。

 父子対談の中では、こうした仕事の体験談が語られ、貴重な職人噺になっている。同じ数寄屋作りの巨匠といっても、潔癖さを追究した吉田五十八ときれい過ぎを嫌った村野藤吾では手法の違いがあったなど、紙製光天井つくりをめぐる苦心談や水澤工務店の心意気などもあわせて聞き出されていて、興が尽きない。周太郎氏は、父のいる仕事場で、何度見てもみあきない職人技の光景を体験したと語っている。全面薄糊のついた薄い生漉紙を、その端に定規をあて空気のように糊板から離して、掛け軸の本紙裏に置き移す静かな手際に、子供心にも「神業」のように感じたとも記している。そのような職場と、「すっきりしている」「さっぱりしている」「しぶいね」という日常の美学用語が飛び交う、粋な江戸好みの家風に育ったのが周太郎氏なのであった。

 その周太郎氏は長い間わが国の工業デザイン界をリードされてきた国際派である。数年前にはボンで招待展覧会を開き、また、武蔵野美大の定年退職記念を兼ねて東京の印刷博物館では、そのエスキスを見せてくれた。しかしその活動はアートの世界に封じ込められることなく、私たちと形の文化会を立ち上げたり、ゲーテの自然科学の集いをサポートしたほか、ついこの間は基礎デザイン学会を創始されて、若手後継者育成の筋道を付けられた。また、具象詩(コンクリート・ポエトリー)、記号論の優れた作者、論客でもある。バウハウスの理念と強く結びついたドイツのウルム造形大学にかつて学び、中でもその創設者で環境建築家であるマックス・ビルの人と思想(周太郎氏の具象詩集巻頭にこの師が寄稿していた)に傾倒してきた。20世紀前夜のマラルメの詩集を、言語や文字が書物や詩の線行を離れて空間に舞い出ずる大きな予兆と見、またバウハウスの面々たち、カンディンスキーの「造形言語」やクレーの「造形思考」を父として、マックス・ビルの具体芸術「コンクリート・アート」が懐胎されたという。周太郎氏はこのマックス・ビルの薫陶を受けつつ、いま、具象詩からさらに大きな芸術革命、諸感覚の再統合というコンステレーション(星座)運動に携わっている。

 このようなバウハウスの精神的伝統を継承した周太郎氏が、生粋の江戸職人の家に生まれたというこの偶然の組み合わせに、私たちは感謝しなければなるまい。こんな希有な接点を足場にして、周太郎氏は、「ふすま」という日本文化特有な具象物を見据えていくのである。それが本書前半の全八節に分かれる「ふすまという現象」で、文字通り強力な想像力と詩的言語で紡ぎ上げられている。一見平易に思われる語り口から、重く切実な日本文化への思慕がほとばしり、この思慕を原動力として、周太郎氏は、言葉の狩人になって「ふすま」という言葉とイメージの堆積層から、日本文化の基調音、空間意識の深層を掘り出していくのである。

 「ふすま」に盛り込まれた文化的含意は奥深い。骨という木格子に和紙を張り重ねていくのだが、「張る」は春や晴れと同源であってけっして単なる「貼る」ではないという。しかも紙は神に通じ、「ふすま」つくりは光を包み込んでいく聖なる行為、という視点が向井周太郎氏の「ふすま文化論」のそもそもの出発点なのである。片面だけに和紙を一枚張って外光を透かして取り入れる「あかり障子」に対して、「ふすま障子」は和紙一つ一つの重ねに光を封じ込めていくという。「ふすま」は寝るのに身に纏う衾(ふすま)でもあり、内と外の境を張る装置でもある。「ふすま」の「ま」は自然に「すき」(透・隙・鋤・漉・梳)を入れること、それは世界を創ることと同義になるが、結果として、神(紙)に「さわる」(障・触)ことになる。そこで神の座を守るために、結界を設ける。白の御帳や注連縄こそ「ふすま」の原風景なのである。ここまで読んできて 、私は照葉樹林文化研究会の面々と対馬の調査をしたとき、神に捧げる赤米田の結界に注連縄と御幣が下がっていた光景を思い出した。周太郎氏の発掘作業はこうして古代の心象風景にまで辿り着く。まさに、「ふすま」という言葉は、宇宙から風景・空間・風俗に至る事象を映し出すモナドのように、俗と聖の多様なイメージの襞を展開していくことを、説得的に語っていく。

 ここで周太郎氏が襖を「ふすま」と平仮名で書く理由もうなづける。変幻自在な多義性が「ふすま」という文字に込められているからである。わが国最古の庭園書『作庭記』を繙きながら、野山の稜線、水路の流れ、石や島の配置といった庭の景観を構成する筋が「筋交えて」という作庭思想に集約されることに触れてから、ふすまの「引き違え」の思想に共通すると指摘するのも、重要な日本文化論の提起になっている。
 このように氏の記述を私が祖述するのは、読者自らの感性で著者の意図を読み取るのに一助になると思うからであるが、もうこの辺で止めておこう。

 ただあえて蛇足を付け加えるとしたら、本書は日本文化論の優れた一書になっているばかりか、向井周太郎氏の造形思想を知る上でも、有力な鍵になることを言っておきたい。氏のコンステレーション運動には、時間に腐食されてきた空間の復権、という史的意図があるのではとも思うが、こうした「ふすま」という極めて日本的な空間装置をめぐる知的冒険は、行うものにも読むものにも快く、そこから氏の言う「身振り」そのものが極めて明確にあぶり出されてくると思えるからである。氏がかねていう造語「モルフォポイエーシス」という言葉は、「ポイエーシス(世界形成)としてのモルフォ(かたち)の始源に立ち返って、世界の生の基層から生成する言葉との響鳴へと向かう制作の意(こころ)」を指すと、別の書で述べておられる。声と手という身体言語こそ「身振り」であり、身振りに制作の心が現れる。デザインという行為も、このような原初性から考えるべきとすれば、なおのこと、個別具象物である「ふすま」をめぐる氏の「身振り」を本書から読み取る作業を、読者諸氏にもお勧めしたいと思う。
向井一太郎・周太郎著『ふすまー文化のランドスケープ』中公文庫の解説
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