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 works > エッセイ > 詳細
ある編集者の死 (哲学書房中野幹隆氏追悼)
 花一杯の大きな祭壇に、故人と親しかった学界や出版界の人々の名札が二、三十ほど並んでいた。正月明けの北鎌倉、円覚寺裏山の塔頭白雲庵の本堂である。訪れた焼香の人たちの姿は、太い柱の陰になって見えないが、庵主の読経がいつまでもつづく。小さいが異色な出版社哲学書房で奮闘した中野幹隆氏が1月14日朝亡くなった。63歳である。

 中野氏は血尿など体調に異変を感じても仕事に追われ、三ヶ月経ってから病院で診断をうけたら、クラス五の右腎盂尿管ガンであった。ただちに腎全摘出を受け、さらに膀胱腫瘍切除などで入退院すること約10回、それに抗ガン剤投与などで通院も八十余日に及んだ。三年近い闘病生活と仕事をつづけての死であった。

 通夜のあと、近くの縄のれんで作品社の高木有氏と心理学の岸田秀氏と三人でお清めした。そのとき高木氏が生前の中野氏から預かったという葬儀メモを見せられた。葬儀委員長黒崎宏氏をはじめ弔辞をもらう人たちの名、葬儀の際のモーツアルト曲名などが記されてあった。北鎌倉の墓地も数ヶ月前にご自分で決めたという。中野氏は編集者として、ご自分の最後まで演出したともいえるが、信州出身の律儀な氏にとっては、葬儀は人生を括る重大な行事と考えていたのだろう。「それにしてもよくいろいろな雑誌を立ち上げたものだ」と、われわれは軽重五種を数えあげて、感心しあった。家に戻って、中野氏縁の拙著や、折に触れて送ってもらった本、雑誌などを書庫から捜し出し、分からないところは容子夫人に教えていただいて、中野幹隆という編集者の足跡をつないでみた。

 編集者中野氏の出版界デビューは1967年の日本読書新聞社入社である。数年後、竹内書店でのちスーパーエディターを自称する安原顕氏の『パイデイア』を手伝い、73年青土社に転じて、いまも思想界で重きをなす『現代思想』の創刊編集長になった。小生はそのころモノー特集号に、ケストラーのホロン概念の初紹介になる論文を一本翻訳したのが、中野氏との出会いであった。伊東俊太郎氏の紹介である。以後、折に触れて中野氏と会った。会うとこちらはドット疲れが出たものだが、それは中野氏特有の、重くて寡黙な知性の吸収力のせいかもしれなかった。75年には語学系の朝日出版社にスカウトされて、『現代思想』よりもっと知の冒険色を強めた哲学誌『エピステーメー』を立ち上げ、四年つづいた。書籍分野では、エピステーメー叢書を創刊し、私は訳書『おかしなデータ・ブック』を出した。この時代、中野氏はいまも貴重な科学史原典叢書「科学の名著」を世に出し、対談形式の講義本シリーズなどで華麗な編集者ここにあり、とアピールした。いまでも大森荘蔵氏と坂本龍一氏の哲学講義『音を視る、時を聴く』の編集感覚には感服する。

  1986年、自称「印税を払えない出版社」哲学書房を設立、自立した。蓮実重彦、養老孟司氏など論客を揃えた出版活動のほか、12号までつづいた『季刊哲学』はまさに氏の真骨頂の極みであった。「神の数学」「生け捕りキーワード」など、いまでも身震いがでるほどの企画特集である。小生がNHKスタジオで五時間、落下問題をテーマに荒俣宏氏と対談して纏めてもらった『アインシュタインの天使』や、監修したアインシュタイン・ドキュメント『私は神のパズルを解きたい』も、秀抜な中野氏の編集センスが結晶したもので、感謝している。出版不況の中で、「中野モデル」といって、堅い学術出版では印税を0にするやり方を見習うものも出ている。しかし印税ゼロでも、中野氏の卓抜な企画力の魅力があってこそ、共鳴した著者たちが協力したことを忘れてはなるまい。
『週刊読書人』2007年2月23日号掲載
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