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京都と中也を結ぶNPO法人京都中也倶楽部
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鈴木大拙没後四十年に寄せて
 いま鎌倉は、朝晩、ホトトギスが鳴き渡り、禅寺やアジサイなどをめぐる観光客で賑わっている。梅雨寒が空けると、世界的仏教学者・鈴木大拙(本名・貞太郎)没後四十年の命日が近い。北鎌倉は大拙が初めて座禅した見性[けんしょう]体験(公案を与えられて悟りを開くこと)の地であり、一九六六年(昭和四十一)年七月十二日に九十六歳の生涯を閉じた終焉の地でもある。東慶寺の裏山に、大拙の師釈宗演の遺言に基づき、財界の理解者で同郷の安宅彌吉らの尽力で、昭和十九年に松ヶ岡文庫が誕生した。以来、ここを根城に、戦後の長い渡米生活をはさんで、大拙は、禅に始まり浄土門の妙好人に共感し、華厳哲学を極めて、自在に日本的東洋的霊性の研究を深め、宗派国籍を超えて禅を世界の精神的財産として確立したのである。今年は松ヶ岡文庫が財団法人化してから、ちょうど六十年にあたる。

 その松ヶ岡文庫が、関係機関と協力して、没後四十年記念事業を展開する。鎌倉を皮切りに金沢・京都と、六月八日から十一月二十八日まで、記念展覧会(鎌倉の国宝館・金沢のふるさと偉人館・京都の大谷大学博物館)を巡回するほか、講演会、出版活動(記念文集、大拙手沢本『臨済録』復刻、展覧会図録とつづく)などを展開している。

 五月末には、記念出版の先頭を切って、松ヶ岡文庫編で「道の手帖」として『鈴木大拙、没後40年』を河出書房新社から出した。ここでは、アメリカの名門女子大学出の美しいビアトリスが、五歳上の大拙四十一歳と結婚する前と後の、「最愛なる最愛なる貞様」宛の、愛の書簡五点を初公開した。必ずしも美男子とはいえぬ大拙を追いかけて、出会って五年後の明治四十四年には日本にやってきて結婚、高野山に通っては密教などの神秘主義を研究講義して、昭和十四年に東京聖路加病院で亡くなった。六十一歳、日米開戦の地獄を体験しなかったのは幸いであったが、母も呼び寄せて大拙と送った家庭生活は、養子アラン(日本名・勝)の件などでときに波風が立っており、人間大拙の一端をのぞかせる貴重な資料である。

 松ヶ岡文庫所蔵の一万冊近い洋書の目録化が、ボランテアの協力で、一年ほど経って目鼻もつき始めた。その整理中、米国を離れる直前に大拙がビアトリスに贈った、瀟洒な手掌本がつい最近見つかった。街道筋や富士山・芸者寝姿から阿蘇山火口まで、五十点の写真を配してエキゾチックな興味を誘う日本案内の、クリーブ・ホランド著『シングズ・シーン・イン・ジャパン(日本事物拝見)』、一九〇七年、ニューヨーク刊である。この扉に献辞がついていた。「びあとりす、君が吾が日本に興味を持てる様よろこびて此小冊子を贈る 貞」とあり、上には ‘To Biatrice san from Tei’と英語表記で、一九〇八年二月の日付けがある。公開書簡は同年二月二十五日付けで、「あなたからこんなにもたくさんの優しさと贈り物をいただいた」とあるから、その贈り物の一つだったのだろう。

 明治近代化以降、もっとも国際的影響力をもった日本知識人が鈴木大拙である。「最も豪そうでなくて、最も豪い人かも知れない」と評した心友西田幾多郎は、その哲学の培養土に大拙居士をもった。大拙の学問は卓抜な英語表現力と透徹した禅仏教理解で、海外の人たちを魅了している。これからは、そういう大拙の人間的側面や科学との交渉など、宗教の人間的基盤と外縁部をめぐって研究が深められねばならない。
『毎日新聞』2006年7月4日夕刊掲載
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