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「科学の本」第4回 社会的責任
 人間の知は厄介である。サミュエル・バトラーの古典『エレホン1872』(山本政喜訳、岩波文庫)の世界のように、知的好奇心を博物館に封じ込めてしまうのも、「どこにも存在し得ない」(nowhere、「エレホン」はこの逆さ読み)非現実策であろう。一方、カール・ケレーニイの『プロメテウス』(辻村誠三訳、法政大学出版局)にあるように、半神のプロメテウスでさえ先見知を発揮して神の懲罰を受けるのに、非神の人間が原子の火を手にする不合理さがギリシャ悲劇ならぬ人間悲劇なのだろうか。

 生誕百年記念になる朝永振一郎は、核兵器の拡大競争と米ソ両陣営の対立という時代にあって、科学の運命について苦悩してきた。遺著『物理学とは何だろうか』全二巻(岩波新書)は未刊に終わった。しかし、物理学の性格を基本から理解したいとするに人は、本書はお勧めである。自宅や食堂や集会で日常の姿に接した筆者にも、平易な語り口調と行き届いた教育的配慮は、いかにも朝永らしいと思う。下巻の「科学と文明」は、科学と科学の使用はもはや分けられず、科学の原罪性を肯定する朝永の持論である。これをもって罪を認めた朝永と罪を認めぬ湯川という論議が、唐木順三の『「科学者の社会的責任」についての覚え書』(絶版、筑摩書房)を契機にして知識人の間でまかり通ったものだが、こういう浅薄な議論を忘れて、朝永の本書は熟読に値する。科学技術者というものは、その異常さ、恐ろしさが大きいほどかえってそれを作ってしまう、というパラドックスを最後に述べている。これは科学法則の普遍性に仕組まれた時限爆弾かもしれない。知のあり方と発現の様態を考える上でも、朝永の遺言は読み継がれるべきであろう。

 原爆責任問題では、ブレヒト著『ガリレイの生涯』(岩淵達治訳、岩波文庫)は欠かせない。この戯曲は二回も書き直されたが、私自身、ベトナム戦争に揺れた70年代初めに東京演劇アンサンブルの上演で見、数年前には、こんにゃく座オペラで再度出会った。ブレヒト自身は、ナチスの暴力を逃れてデンマークに亡命中、暗い時代の中でもなお理性の光を信じようとしたらしい。物理学者ボーアの弟子たちの協力を仰いで、三週間で初稿を書き上げ、法王庁にガリレオが屈服したのも、科学の進歩のため理性のための変節だ、となかば肯定した。しかしこの楽観論は広島原爆投下のニュースで吹っ飛ぶ。「一夜にしてガリレオの伝記は違った読み方をされるようになった」と書く。こんどは、「機械の無責任さを隠れ蓑に利用する」科学者の純粋研究が槍玉にあげられた。「英雄を必要とする国は不幸なんだ」とガリレオに叫ばせ、「大衆に背を向けてもなお科学者でいられるか?」と自問させる。ブレヒトのいうガリレオの犯罪は、科学を民衆の手に渡さずに権力者側に渡してしまったことにある。

 ブレヒトの告発は、科学の素性問題を超えて、人間の知のあり方に迫るものである。
『東京/中日新聞』2006年4月30日掲載
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