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私のアインシュタインLOVE
ぞくぞく新発見の日記や写真が

 正直いって、アインシュタインの訪日関係の一部始終は、四半世紀昔の拙著『アインシュタイン・ショック』全2巻(当初、河出書房新社、いま、岩波現代文庫)に盛りきったと、私は密かに自負してきた。なにしろ、アインシュタイン訪日日記に辿り着いて太い筋が通り、国内外の関係資料や写真類も漁りつくしたと、思っていたからである。しかし今回の展覧会その他の企画に協力して、「アインシュタインLOVE」になった制作スタッフの並々ならぬ熱意のおかげで、思わぬ資料の発掘がつづいて、驚いた次第である。

 たとえば、私が訪日当時の日本郵船「北野丸」機関長のご遺族から写真ありとの連絡を受けたのは、もうだいぶ前なのだが、連絡を取ったその直後に当のご遺族が亡くなり、諦めていたところ、スタッフが遺族関係者と粘り強く交渉して初公開の記念写真を探し出してもらった。なんともリラックスしたよい船中記念写真である。帰りの「榛名丸」では、やはりアインシュタイと同船した方々お二人、画家の前田寛次氏と物理学者の鈴木清太郎氏のご遺族と、スタッフの熱意に押されるかたちで連絡を取って、今回初めてスケッチ帳や同船記などを拝見

、展示の一角を飾ることができた。前にお目にかかっていた「榛名丸」同船の工学者鷹部屋福平氏のご遺族には、改めて資料展示のお願いをして、スタッフにも同行していただいたのだが、なんと以前は見つからなかった「船中日記」をご遺族が見つけだしてくださり、これも初見になった。そのほか、宝生流の観能会や松島ホテルでの記念写真など、初見得のものも多い。これで欲をいえば、来日当時の記録映画か、輸入上映された「アインシュタイン映画」のフィルムが見つかればよいが、と願っている。「アインシュタインLOVE」展は、日本各地で長期巡回展示になる予定というから、これからも新資料の発見はつづくのではないか、と期待している次第である。

 大正10年(1921)、中国からの帰国の途次、日本に上陸した哲学者バートランド・ラッセルに、新興の出版社、改造社社長山本実彦は、得意の質問をぶつける。「現存する世界の偉人を三人あげてほしい」というものである。ラッセルの答えは「一にアインシュタイン、二にレ−ニン、三はいない」というものであった。ラッセルのアインシュタイン評価は、ロシア革命を成功させたレーニンよりも高かった。後に、その評価の根拠を、「自己の利害に関係なく発言し行動する」アインシュタインの無私性に置いていたことを、明かしている。

 ここに改造社側はアインシュタイン招聘の意志を固めたといわれる。
 当時のドイツはヒトラ−らによる反ユダヤ運動が盛んで、ワイマ−ル共和国のユダヤ系外相で、アインシュタインの心の友ラテナウが暗殺されるなど政情は騒然としていた。アインシュタインの首にも懸賞金がかかっていた。アインシュタインは一度は契約金の問題で訪日を断り、二度目に訪日の決断をする。改造社の旅費込み2万円という謝金は大金ではあったが、この旅は世界市民と世界政府を理想としていたアインシュタインにとっても、只一回のアジア体験旅行になったのである。今日と違って旅行の手段は船しかない時代である。日本郵船の定期航路で往復の船旅60日を費やし、日本滞在は43日間に及んだ。あわせて100日以上の日数を、脂の乗り切った43歳のアインシュタインは、惜しみなく訪日事業に使いきったのである。

アインシュタインLOVE

 かく申す私は、大学に入って間もなく、山内恭彦先生の物理学の本に出会い、そこで明快で深遠な相対性理論の魅力に触れ、大学3年の時に博士の訃報を新聞で目にして、科学に政治に文化に、幅広く発言していた博士の人間像の一端を知るにいたって、ますますアインシュタインLOVEになっていた。私は医学部志望から科学史研究に方向を変え、とりあえずは、科学ジャーナリズムを目指して幅広い科学技術の現場を知ろうと考え、幸い新聞社・出版社を経て、大学の研究者になったのである。新聞社はアポロ11号の取材をヒューストンやフロリダでやったのが最後だったが、それまでに、アインシュタインが書いた唯一の一般解説書である『特殊および一般相対性理論について』(白揚社)を始め各種の伝記や解説の翻訳書を出して、アインシュタイン理解を深めていった。この間に、大正11年(1922)にアインシュタイン夫妻が来日して、大正デモクラシー下の日本各地でブームが起こり、科学界のみならず芸術・文化・政治など各界に大きな影響を与えたことを知るようになり、関係資料の収集に着手していた。『アインシュタイン・ショック』執筆に大きく前進したのは、アインシュタイン遺産管理人、オットー・ネーサン氏の計らいで、プリンストン・アーカイブにある、訪日日記帳を始め数々のアインシュタイン文書を調査できたためである。

 ここで私にとっての「アインシュタインLOVE」とは、アインシュタインを聖人か神の如く崇拝することではなく、長短併せ持つ一個の人間として、丸ごとその人柄を敬愛する心情を抱くことをさす。私が長年アインシュタイン研究を続けているのも、アインシュタインという人間がそのまま好きだし、研究していても気持ちよいからである。
失敗も特許も遊びも

 アインシュタインの天才ぶりはいうまでもない。1905年の奇跡の年には、ベルンの連邦特許局技官という身分で、学位論文の外、特殊相対論、光量子仮説、ブラウン運動理論の三大論文を発表、大学の先生たちを驚嘆させたのだから。その後も、太陽の重力で光線が曲がるとか、いろいろな予言を出しては確認されていった。相対論には特殊と一般と二段階にわたって展開されたが、ほとんどアインシュタイン独力の成果であった。量子力学の形成は、よく集団的成果といわれるが、アインシュタインの根本的貢献は、光子が粒々のエネルギーの固まりと唱えて、プランク仮説に実体を与えたことである。しかしそういうアインシュタインも、研究の生涯において、研究プログラムで二つの重大な見落としがあったのである。静止宇宙にこだわって膨張宇宙モデルを見落とし、とてつもなく大きな重力下で起こるブラックホールを否定したことである。それを指摘したのはいずれもほぼ無名に近い気鋭の研究者たち、前者ではロシアのフリードマン、後者ではドイツのシュヴァルツシルツであった。それでもすごいのは、この見落とした問題はどちらも、アインシュタインの建てた一般相対性理論から導き出されたものである、ということである。

 研究の基礎になる家庭環境も、アインシュタインの場合、平坦とはいえない。若いときには父の事業破産や離散があり、また高校中退や大学入試失敗、就職浪人中で生活の希望が砕かれそうになったりした。また最初の妻ミレーヴァとの離婚と従姉のエルザとの再婚があり 、下の息子の精神病という家庭内不幸を抱えていて、いくらでも落ち込む材料はあったのである。それでも、つねにプラス思考で切り抜けていく。こういう悩みや欠陥も含めて、私にとって、愛すべき魅力に満ちた「アインシュタインLOVE」なのである。

 アインシュタインは冗談を言いつつ、寺田寅彦も好んだ日常茶飯の現象にも目を向けて、面白がった。川はなぜ蛇行するか、を考察して短い論文にしたが、それは河川工学でも有名な式になった。訪日の北野丸船上では、トラ狩りで有名な生物学者の徳川義親と一緒にマッチ遊びを楽しんだが、その合間に、なぜ100bも高い木のてっぺんまで植物は水を吸い上げられるのか、議論を始めて、尾張のお殿様であった義親を大いに弱らせた。日本滞在中の宿屋では、葉巻の煙の渦の形について石原純らと議論し、京都のお寺に行くと、その大鐘の中に頭を突っ込んで、中心部では響きが消えてしまうことを確かめたりした。

 驚くなかれ、アインシュタインは発明マニアでもあって、性能のよい補聴器や自動焦点カメラなどを共同で特許に取り、電気冷蔵庫の原理を考案してこちらはレオ・シラルトと特許にした。企業顧問を終生務めてもいた。戦争中は海軍技術顧問となってプリンストンの家に毎週末に海軍技術将校を迎えて、有益なアイデアを出すことになっていたが、これは体のいい監視下にあったということかも知れない。ともあれ、アインシュタイは理論物理学者であるが、それ以上にマルチ人間なのであり、多芸多才の持ち主なのである。

 そして遊ぶことにも熱心だった。たとえばヨット大好き人間なのである。ベルリン郊外や、北米に渡ってからはプリンストン近くの湖で、エネルギー最小消費が気に入っていたヨットにゆられて、昼寝をしたり、友人たちとの会話を楽しんだ。若いときからバイオリンやピアノも上手で、就職浪人時代には冗談に辻音楽家で賽銭をもらおうか、と仲間にいったりもした。ニューヨークのチャプリン家に招かれたときも合奏した。訪日したとき、帝国劇場でチゴイネルワイゼンをひいて、喝采を浴びたし、往復の日本郵船のキャビンで気軽にピアノに合わせたり、独奏したりした。

子供が大好き

 アインシュタインは贅沢は嫌いで、質素な生活をとくに好んだ。アインシュタインお気に入りの哲学者スピノザがレンズ職人として生活したように、鉛管工にでもなって世を送ることが夢であった。靴下が破れやすかった時代、穴が空くからと、靴を裸足ではいた。シルクハットやフロックコートといった礼装を持たず、ジュネーブのカルバン祭に麦わら帽子の背広姿で現れて、並みいる来賓を驚かせた。訪日の背広のズポンには接ぎ当てがあった。赤坂離宮での観菊会の招待に、借り物のフロックコートはなんとか着られたが、大きい頭に合うシルクハットがなかったので、手に持っていくことにした。そんなことは気にも止めないのである。エルサレムのアインシュタイン文書館には、遺言に基づいて論文・著書の類から、レコード、衣服まで保管されている。私はその上着と帽子を身につけてみた。大きいと思っていたのが、大柄なほうの私には窮屈であった。

 子供が大好きであった。近所の女の子がアインシュタイン先生の散歩で帰ってくるのを待ち受けて、宿題の幾何学の証明をおねだりすると、喜んで地面に解き方を書いたりした。有名になったアインシュタインには、「アインシュタイン先生、USA」の上書きだけで、世界中から郵便が殺到した。全部に目を通して、子供の質問には丁寧に答えている。子供だからといって、いい加減な対応はせず、きちんと筋道を悟らせるようにしていた。たとえば、クリスマスを祝う子供たちに、こう綴る。

「そのお方の教えについても考えてください。この教えは単純です。しかしほぼ2000年間、人々の間で優勢にはならなかったのです。人と人の恐ろしい争いを通してでなく、仲間たちの幸福と喜びを通じて幸福になることを学んで下さい。もしあなた方がこの自然な感情を抱くことができれば、生活の重荷は軽くなり、少なくとも耐えられるものになり、忍耐し、恐れなしに進むことができ、いたるところに喜びを拡げるでしょう」。

 私は、エルサレムに移管されてきたアインシュタイの寝室にあった枕頭の聖書を繰ってみたが、その空欄に「わが友、イエス」と赤鉛筆で書き込んであるのを見つけた。この文は、イエスの心情が愛にあることを、よく解していることを告げる印象的な一文だと思う。
日本をLOVEしつづけた

 もう六、七年前の話だが、エルサレムのアインシュタイン資料調査を兼ねてNHKのテレビクルーとイスラエル各地を取材していたとき、地元テレビ局から、日本人がなぜこのように熱心にアインシュタインを取り上げるのか、と逆に取材されたことがある。このときは私の提案で、文楽人形の頭を二体、中年と晩年のアインシュタインのものを徳島に住む名人の大江巳之助さんに作ってもらって、死海のほとりやヘブライ大学講堂で上演もしたから、なお注目を浴びたのである。

 質問に対して、私はアインシュタインと日本の関係を説明した。1922年すなわち大正11年の日本訪問によるアインシュタイン・ブームの蜜月時代と、1945年すなわち昭和20年の原爆投下責任問題で揺れた誤解と追及の辛辣な時期があったが、これは日本側の態度の変化であって、アインシュタインの日本へ向ける視線は終始一貫して暖かかった。いまでは人気アニメ「鉄腕アトム」の産みの親、お茶の水博士がアインシュタインをモデルにしているように、日本では世界的科学者の代名詞になっている、とも付け加えた。このインタビューはその日のニュース番組でそのまま流されて、翌日からは町なかで私たちはよく声をかけられた。

 本展を見て、それぞれが「アインシュタインLOVE」の意味を、自分で考えてみるきっかけになったら素晴らしい。
金子務監修『アインシュタインLOVE』
(アインシュタイン・ラブ日本実行委員会刊2006年4月)、pp4-5
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