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 以前メルマガで発行していた『科学史の街角』は、若干加筆修正して、中公新書ラクレで『街角の科学誌』(詳細は著書のページをご参照下さい)という書名で発売されました。下記は1号を除いて内容の一部しか掲載していませんので、続き及び平田画伯の挿絵は、拙著でお楽しみ下さい。
科学史の街角01「除夜の鐘のない正月 改暦とクラヴィウス」 金子務
 グォ〜ンと腹に響く除夜の鐘は、諸行無常の音色をのせて、歳末列島の光と闇に浸みわたる。迎春の恒例行事。大正11年末に43日間日本に滞在したアインシュタインは、京都の知恩院の大鐘に頭を突っ込んで音色の変化を楽しんだ。撞木で力一杯、なぜ百八回も撞くのだろう。生老病死の四苦(4×9=36)に「別離」や「不得」などの八苦(8×9=72)を 足して、四苦八苦の厄払いとも、12ヶ月24節気72候の12+24+72=108で、一年の無事を祈願するとも、いやさ、六根(眼耳鼻舌身意)に好悪平三つと浄染二つあり、それを過去現在未来の三世に配し、6×3×2×3=108と、念入りな六根清浄を願うとも。  本当にその数を撞くものか、大晦の鎌倉の寺で、襟を立てて確かめたことがある。鐘撞き堂の横木に小石を百八個並べて、一回撞くごとに布袋に納めていた。小石と撞きが一対一の対応関係でこれは手堅い。坊さんが現代数学の集合論をやっているわい、と感心した。 こういう鐘の音が日本国中で響かずに迎えた新年がある。明治6年の正月元旦である。一ヶ月前の新政府の通達で、旧暦が太陽暦に切り替わり、歳末が吹っ飛んだのである。明治5年12月3日を明治6年1月1日と定め、その年の12月をわずか2日で打ち切った。これで昼と夜の時間の長さが季節によって変わったりせず、正確に60分が1時間になったが、月本位でなくなったから毎月1日が新月といえなくなった。

 いまの太陽暦は、16世紀後半、ローマ法王グレゴリウス十三世の命で、イエズス会士で数学者のクラヴィウスがグレゴリオ改暦を実施し、十日ずれていた復活祭を是正したものだ。西暦紀元年数が4で割り切れる年を閏年(ただし100で割った商が4で割り切れない年は平年)にし、閏日を2月28日の翌日に挿入、1年の平均日数は、(365×303+366×97)÷400=365.2425日と、精度の高い暦法になった。改暦のあった1582年は、少年遣欧使節団がローマに向けて出発した年でもある。

 それから290年。

 財政難にあえぐ明治政府は、翌明治6年(1893)が旧暦では閏月(1年が13カ月になる)のある年で、月給を余計払わなければならなくなるので、改暦を急いだ。こうして明治五年の歳末は女性に欠かせない12月8日の針供養も、年末恒例の煤払いの竹売りも吹っ飛び、歳の市も立たず、晦日払いの契約も厄払いのお祓い連中も勝手がはずれた。
挿絵:平田 道則プロフィール
科学史の街角02 「神託の石」 金子務
 未来予測はむずかしい。たとえば新技術の実現時期の予測法にデルファイ法がある。核融合の実用化はいつか、遺伝子病の克服はいつかなど、いくつかの質問表を専門家グループに送って集計し、その結果をつけてまた質問を数回くりかえし、収斂した期間を新技術の実現時期と見なすのである。最近はどういうわけか、影を潜めてしまった。
科学史の街角03 「雪の花」 金子務
「雪は天からの手紙」といったのは、雪氷学者の中谷宇吉郎(寺田寅彦の弟子)であった。雪は天の情報を伝える使者なのである。その雪の科学的結晶図を初めてわが国で画いたのは、古河八万石の殿様、土井利位。『雪華図説』(正続、1833、40)を著した。観察を手伝った家老鷹見泉石の跋文によると、マルチネットの蘭書『自然の問答集』を長崎出島経由で入手し、参考にした。
科学史の街角04 「台北のハイテクビル」 金子務
 旧正月前の台北はなま暖かい空気に包まれていた。改修中で一部公開の故宮博物院に回ってから、午後遅く、国父(孫文)記念館に出た。広い回廊で、中年の男女二組がダンスをしている。ここから、「台北101」ビル(台北国際センター)がよく見えた。101階建て。高さ508メートルで世界一。伸び上がる「竹」をイメージしたというが、重箱を逆さに八層重ねた形。数8は「発」に通じて縁起がよい。台北新都心の新義区に二年前に登場し、横浜のランドマークタワー(296メートル)はもとより、マレーシアのツイン・タワー(452メートル)を軽く抜いてトップに躍り出た。
科学史の街角05 「残照の五稜郭」 金子務
 学会で函館に出かけた。函館山から見る、漆黒の海に挟まれた町の灯の連なりは、なんど見ても美しい。榎本武揚[えのもとたけあき]や土方歳三[ひじかたとしぞう]らが死守した五稜郭[ごりょうかく]の古戦場も、きれいに整備されて観光名所公園に。築城当時の姿を唯1遺す兵糧庫、要塞砲や艦載砲を見て回った。慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いに始まった戊辰戦争は、翌明治2年5月の五稜郭開城、箱舘戦争終結をもって終わる。
科学史の街角06 「さかさタコ」 金子務
 昨春、エーゲ海クルーズでギリシャの島々を回った。漁船の帆柱の左右にタコの足が干されていた。ギリシャやイタリア、スペインの地中海人種は、大昔からよくタコを食べる。本州北端の風の岬竜飛[たっぴ]から、階段国道を下って出た晩夏の漁港でも、タコを三段に吊って売っていたのを思い出したが、頭はなかった。タコの美味は足に限るのか。
科学史の街角07 「魔の舞台エトナ山」 金子務

 エトナ山はヨーロッパ最大の活火山。2001年の噴火で3323メートルの高さが3340メートルになった。イタリアのつま先、三角形の形をしたシチリア島にある。島の優美な保養地タオルミナに半ば崩れ落ちたギリシャ・ローマ劇場がある。その外壁に立って、死んだ剣闘士を落とす穴のある舞台の欠落部を通して、洋上に見えるはずの雄姿を探した。好天の夏だったが、雲に覆われて見えない。二酸化硫黄を吐き続ける魔の山。登山熱に煽られたゲーテも、途中の見晴台までラバの背に乗り山頂を目指したが、強風と崩れる砂礫に阻まれた。

科学史の街角08 「賀川豊彦の科学と宗教」 金子務

 昨年末、四国の玄関・鳴門市に大阪から高速バスで出かけた。相対性理論など三大論文を立て続けに発表したアインシュタイン奇跡の年から100年。鳴門の賀川豊彦記念館にその記念講演を頼まれていた。賀川といえば、大正・昭和と活躍したキリスト教社会改良思想家。大正11年(1922)来日のアインシュタインを神戸に出迎え、歓迎会や案内をしただけではない。賀川のお陰でアインシュタイン訪日が実現したからである。

科学史の街角09 「知られざる技術移転〜青島ドイツ人捕虜収容所から学ぶ」 金子務
 前回につづいて鳴門での話。賀川豊彦記念館のすぐ隣りにドイツ館がある。ベートーベンの第九交響曲がここ「板東俘虜収容所」で初演された。その演奏風景が舞台と人形で再現されていた。
科学史の街角10 「らせん階段の恐怖〜ガウディ有機体建築に見る科学性」 金子務
 もう十年になるが、国際学会がスペイン北部のサラゴサで開かれた帰り、バルセロナに連泊した。市内外の地図に印をつけて、ガウディの建築巡礼をしたいと思ったのだ。カサ・ミラの屋上にある煙突造形に感嘆し、グエル公園ではガウディ設計のベンチに横になって青い空と雲を眺め、ホテル近くのレアル広場ではガウディ設計の街灯の下でビールを飲み、夏の夜十時になっても子供たちが遊ぶ南欧の風習に至福の一刻を過ごした。
科学史の街角11 「風車再興〜技術集積所の塔型オランダ風車」 金子務
 ライデンはオランダ屈指の大学街である。江戸末、哲学の西周[にしあまね]や法律の津田信道もここで学んだ。その植物園の一角に、蘭学を伝えたシーボルト記念の植え込みも
ある。十七世紀オランダ絵画の黄金期を築いた天才たち、レンブラントやフェルメールの街、多彩なDNAの集積地なのである。
科学史の街角12 「寅彦門下の知られざる一物理学者」 金子務
 寺田寅彦は、漱石に可愛がられた文才抜群の科学者であった。X線による結晶解析に成功、その大論文を海の向こうに船便で投稿する間に、似た実験をしたラウエらにノーベル賞をさらわれた。以降、寅彦は災害や航空、日常の物理現象に目を向けた。藤蔓に左巻と右巻があることを知ると、弟子にその樹液成分の旋光性の違いを調べさせた。光度が弱くて思うような結果が出ないと、「そんなはずはない」と自信満々であった。この弟子が、後の九州大学教授、鈴木誠太郎である。
科学史の街角13 「巨大タンポポ〜長谷川潔展で出会った謎の植物」 金子務
 展覧会にはよく出かける。わが国銅版画界の雄、長谷川潔没後 25年記念の展覧会は待ちこがれた一つだ。場所は横浜美術館、い まやそのコレクションは版画・水彩・素描など千点を超して世 界一。長谷川は横浜生れ、十代で父母を失い、麻布中学卒業後、 外交官を断念して画家を目指す。美術と文芸の融合期である大正 デモクラシー下で、東京・大森の長谷川邸は有力な文化人のたま り場に。27歳の1918年(大正7)米国経由で渡仏し、以後、62年 間、死の時まで日本人の誇りを持ちながら、櫛状の歯をもつベルソーなどを駆使した独特な銅版画法「黒の技法」を確立、フランス政府発行の肖像メダルに、日本人画家として葛飾北斎、藤田嗣治に次ぐ三人目に選ばれた。
科学史の街角14 「坊ちゃんのモデル〜漱石と物理学校出の高田の教師」 金子務
 新潟県高田高校の名物校長が亡くなって一年。教育と研究に真摯に取り組んだ好漢だった。かつ好古の文章家で、密かに『北越雪譜』の鈴木牧之の生まれ変わり、と敬服した。竹沢攻一という。
科学史の街角15 「最古のクイズ〜ゴルギオスの結び目と結縄文化」 金子務
 伝説によると、ヒッタイト帝国を優秀な鉄器と繊維文明で圧倒・滅亡させたフリュギア人たちには、雄牛の車に乗って最初にフリュギアの都に来るものを新たな支配者にするという神託があった。それがゴルギオスで、ミダス王の父とも先祖ともいわれる。その牛車は神殿に奉納され、柄が丈夫な、ミズキ科の樹皮で複雑な結び目を作って杭に結んであった。
科学史の街角16 「哲学者アリストテレスの支えに」 金子務
 北ギリシアを歩いて腑に落ちた。なぜ哲学者のアリストテレスが、エーゲ海のトルコ寄りのレスボス島で動物の解剖をやり、やがてインド方面まで遠征して、初の世界帝国を築くアレクサ
ンドロス大王の王子時代に家庭教師になり、動物関連書を数多く書いたのか、と。ビザンチン式修道院の集積地である、マケドニア中心都市テッサロニキはギリシャ第二の大都市である。ここを起点に考えると、アレクサンドロスが生まれ育った地ペラが西三八キロ、アリストテレスの生地は逆に東60キロのスタゲイラ。わずか100キロしか離れていない。父が医者で王子の
祖父と友人であったのだ。
科学史の街角17 「ソクラテスの毒杯〜古代アテネのアゴラと毒ニンジン」 金子務
 ソクラテスは古代アテネの中心アゴラで散策し、対話で思索を重ねた哲学者である。相手との対話から思いもかけぬ知を引き出す技を持ち、ソクラテスの産婆術と呼ばれた。アゴラは古代ギリシアの公共市場。いま、正門切符売り場から入ると、右奥に鍛冶神へファイストスの優美な神殿が、向こう正面には高い丘の名所アクロポリスが見え、左奥に裁判所や刑務所跡がある。サッカー場ほどのアゴラのなかに、各種区画跡や発掘中の旧跡、半ば壊れた列像の道などが広がる。半日ほど歩き回って、賢人ソクラテスの最後と対話をを思った。
科学史の街角18 「グーテンベルグの悲劇〜印刷技術革命王とスポンサーの関係」
                 金子務
 発明家は出資者によって運不運がある。十五世紀中央を生きたヨハネス・グーテンベルグは、西欧で最初に活版印刷を発明し、情報革命の原点に立つが、不幸な結末を見たドイツ人技術者である。
科学史の街角19 「ワットの歴史的発明〜蒸気機関を支えたある金銀細工師」 金子務
 英国北部の工業都市グラスゴー市中央広場には、国王ジョージ夫妻の騎馬像と並んで、大きなジェームズ・ワットの座像があった。大学に回ると、見事な鋳物の正門に出て、同校自慢の偉人30人余の金文字名の飾りが輝いていた。その中央に、『国富論』のアダム・スミスと並んでワットの名がある。ワットはグルノックの船大工の息子、航海器具や製図・測量要の精密機械を作る数学器具製造人として大学に迎えられ、学長のスミスや潜熱発見の医学者ジョゼフ・ブラックらに引き立てられた。ここでニューコメン機関の模型修理を頼まれたのが、ワット機関誕生の始まりなのである。
科学史の街角20 「高峰譲吉の遺産〜「アドレナリン」産みの親の独創性」 金子務
 金沢は加賀百万石の中心地である。幕末の激動期にさしたる政治的主導権を発揮しなかった代わりに、明治期以降、著名な非政治的偉人を輩出した。緯度観測でz項発見の木村栄[ひさし]、国際的宗教学者の鈴木大拙、思想家の三宅雪嶺、野鳥保護の中西悟堂、建築家の谷口吉郎らである。兼六園にほど近い本多町の市立ふるさと偉人館に出かければ、写真や資料の濃密な展示が見られる。
科学史の街角21 「博物誌愛好の殿様〜加賀の学問風土と前田綱紀の振興策」
              金子務
 江戸以来、金沢の文化は、前田家抜きには語れない。城南の犀川を渡った先、野田山には歴代藩主の芝に覆われた、他を圧する四角い三段ピラミッド型墳墓群が見られる。小雨模様のなか、下手の鈴木大拙の墓を拝んでから、文教政策を鼓舞し、学者を輩出させた五代綱紀[つなのり]侯の墓前に佇んだ。
科学史の街角22 「鎌倉アカデミア〜文化教育の理想に群れた野散の大学」金子務
 5月中旬の週末、鎌倉材木座の名刹、浄土宗学問所筆頭格の光明寺は、観光客と違う中高年の人たちでごった返していた。鎌倉アカデミア創立六十周年記念展が開かれたのである。本堂右手には、わが家の愛犬も葬られている動物愛護塔があるが、その反対左手の開山堂が会場で、記念資料や写真パネルが所狭しと並んでいた。学長となり後に私も名講義を聴く哲学者三枝博音が、ギリシア語でプラトンの言「幾何学を学ばざるもの、入るべからず」と刻んだ厚い舟板の扁額も飾ってあった。五間三戸の格式高い山門公開時以上の盛況である。
科学史の街角23 「ニュートンの墓碑〜イギリスの知的英雄は異端だった」 金子務
 イギリスは大英帝国時代の記憶が強いようだ。このことは、たとえば17世紀に誕生したロンドンのセント・ポール大寺院の地下に足を踏み入れると実感できる。中央部にあって辺りを圧している巨大石棺二つには、対ナポレオン戦争で活躍したネルソン提督とウェリントン将軍が眠っている。ではペニシリンを発見した科学者フレミングは、と探したら、壁面に小さなパネルがはめ込んであるだけであった。軍人や政治家優先なのである。
科学史の街角24 「地母神の系譜〜クババ、キベレ、アルテミスの流れ」   金子務
 物議をかもしている『ダヴィンチ・コード』の主題は、人類文明は元来地母神信仰という女性崇拝に始まったが、キリスト教の登場で教会体制派がマグダラのマリアの存在を抹殺して、男性支配にしたのを問題にする。真偽はともかく、洋の東西を問わず、古代では女性原理が優勢であった。
科学史の街角25 「馬車の誕生〜中国の車馬博物館で見た発掘品」金子務
 何十という馬の全身骨化石がきちんと整列していた。その後方には大きな車輪が列をなしている。何とも奇妙な、中国春秋時代、紀元前四世紀の殉車馬遺蹟である。孔子のいた旧魯国の曲阜で広大な孔林(墓域)の奥に墓詣でしてから、北北東170キロのシ博市の旧齋国臨シにある古車博物館の展示場である。近くには高速道路が走っている。
科学史の街角26 「龍の一族〜曲阜で見た孔子廟の龍の仔たち」金子務
 中国はさすが白髪三千丈の国である。空想力も精緻を極める。西欧のドラゴンはエリマキトカゲの化け物程度だが、東の龍は「天子を象る」ことで帝王権と結びつき、住居・衣服・調度品などの飾り紋とされ、人民が僭越にも龍紋を使うことは禁じられた。『史記』によれば、中国の元祖黄帝は「黄龍の体」をして、「龍を駕し風に乗り、東は泰山に上り、南は斉魯に遊ぶ」といわれた。元代以降になって、五爪双角の龍紋が天子専用とされ、四爪、三爪の龍紋が許されて、関羽らの神々は四爪、貴族たちは三爪とされた。
科学史の街角27 「黄河と黄砂〜一番難所を渡るホバークラフト」金子務
 中国で山といったら泰山、河といったら黄河である。黄河は長江(揚子江)に次ぐ大河で全長5464キロ、かつ随一の暴れ河。有史以来2000年間に堤防決壊1500回、河道変化26回。河南地方では「3年に2回は決壊し、10年に9回は干魃になる」といわれた。青海省の河源から渤海湾の[ぼっかいわん]河口まで、一ヶ月かけて流れ落ちる。「君見ずや黄河の水、天上より来たり。奔流して海に到りて復た回らず」。李白が「将進酒」で歌った。
科学史の街角28 「海の落とし物〜黒潮が運ぶ三浦海岸の漂着物」金子務
 海の見える美術館で知られる、潮騒と海風に包まれた葉山の神奈川県立美術館に出かけた。ジャコメッティの、枯れ木の如き人体表現彫刻の多くは、ロンドンの回顧展でも見たものだが、哲学者矢内原伊作との交流を証する作品群は見物だった。
科学史の街角29 「謎の五輪塔〜重源以前の三角五輪塔の考案者」金子務
 梅雨空の奈良公園を久しぶりに歩いた。繁殖期を迎えた鹿たちの角も生えそろい、草原で食む群れを横切って夕方、閑散とした東大寺に詣でた。
科学史の街角30 「兵馬俑の発見者〜色鮮やかな始皇帝軍団と地下宮殿」金子務
 数年前、西安(昔の長安)郊外で見た、始皇帝陵の兵馬俑遺跡のあの迫力は忘れられない。もう一つ驚いたのは、この遺跡発見者の農民が会場の一角で、記念図録にサインし、記念撮影ににこやかに応じていたことである。楊志発さんであった。1973年3月、耕作に忙しい時期に旱害に悩まされていた楊さんたち農民6人が、始皇帝陵東1.5キロの村の南で井戸を掘っていた。いくら掘っても水が出ない。代わりに、壊れた陶俑の頭部や破片、青銅兵器などが多数見つかった。これを第一報にしたのが楊さんであった。秦の始皇帝稜の兵馬俑に間違いない─人民公社からの報告で、直ちに考古学調査が始まり、5年後の建国三十周年記念日に、一号坑を博物館として一般公開した。
科学史の街角31 「西欧学問の始源地〜小アジアの古代ポリス遺跡ミレトス」金子務
 西欧文明の母胎はギリシア文明である。いまその出自の多様性を見直す動きが急ピッチである。ギリシア思想や文化の沿革を知るには、まず小アジアのアナトリア半島(現トルコ)に出かけて、エーゲ海沿岸部の、北はイズミール、南はボドルムに拡がるイオニア文化圏を実感するのがよい。
科学史の街角32 「万能人タレス〜学問の始祖は政治・経済畑でも活躍」金子務
 タレスに始まるイオニア学派は、自然を説明するのに、旧来のホメロスやヘシオドスらによる神話的路線を、非神話化することで大きく貢献した。とりわけタレスは、メソポタミアやエジプトの経験的知識を土台にして、自然や宇宙についての理論的理解という革命的方法を持ち込んだのである。
科学史の街角33 「豊穣の女神の出自〜古代七不思議の一つアルテミス神殿」金子務
 地中海文明の基底を造った大地母神信仰の流れは、前に書いたが、小アジアで見られる、クババ、キュベレ、アルテミス、デアーナ(ダイアナ)、聖母マリアである。私は、トルコやギリシア、エーゲ海を旅して、人類文明史の流れを父権制へと変えた鍵は、女神アルテミスの地位の低落にあると気づいた。この女神は、オリエントのイシュタル女神やギリシアの大地神ガイアらと共通するアナトリアの山の神ヘパトから発したクババ、キュベレを併呑するが、ギリシア的世界では変容し、権威も矮小化されるのである。
科学史の街角34 「万物流転の思想〜火を根元としたヘラクレイトス哲学」金子務
 もう一回だけ、イオニア文化圏のエフェソスにこだわる。エフェソスは、女戦士の国アマゾンの女王エフェシアを祖先に持つ、と信じられた。女神アルテミス信仰の中心地である。火の哲学者ヘラクレイトスも、第69回オリュンピア祭年(紀元前504〜501年)の頃に男盛りの、エフェソス人だ。リュディアの富王クロッソスの支配を脱し、ペルシャの緩やかな支配を受けていた時期である。
科学史の街角35 「アトムの誕生〜レウキッポスとデモクリトスの原子」金子務
 古代原子論の祖レウキッポスは、紀元前490年頃のミレトス生まれ。やがてギリシア北東部、アリストテレスの生地スタゲイラよりもっと東、アナトリア半島に近いアブデラで学校を開いた。アブデラはエーゲ海に面したネストス川河口の小ポリスで、古代ギリシア人たちはアブデラ人を田舎者と呼んだ。この地に原子論者が集まった。
科学史の街角36 「ペルガモンの羊皮紙〜円錐曲線論の数学者アポロニオス」金子務
 ヘレニズム時代の栄光に輝くペルガモン遺跡は西アナトリア内陸部のベルガマ郊外に広がる。

 世界帝国を築いたアレクサンドロス大王の没後、分割統治の混乱の中から、やがてこの小アジアの地にもアタロス一世に始まるペルガモン王国が生まれた。プトレマイオス王朝の首都アレクサンドリアに次いで、ペルガモンにもギリシア各地から最高の建築家、彫刻家、文学者らが集まった。学芸を保護したので第二のアテネと呼ばれた。ともに、ギリシア文明の理論知とオリエント文明の経験知を統合するヘレニズム文明の担い手になった。

科学史の街角37 「石原純の愛の巣〜理学者から科学ジャーナリストへ」金子務
 三浦半島を南下し横須賀線終点の久里浜から、東京湾フェリーに乗った。夏の終わりの休日である。人混みを避けて、船首近くの甲板で心地よい潮風に当たりながら、白く泡立つ航跡を見ていたら、35分で対岸の房総半島金谷に着いた。私は、千葉県鋸南町保田に愛の逃避行をした、大正期の物理学者石原純の足跡を調べるつもりなのである。
科学史の街角38 「ツキのない天文学者〜幻の火星文明論と冥王星の没」金子務
 奥能登に行く途次、久しぶりに穴水を通った。晴れ渡り空高く白雲がたなびく夏の終わり。金沢から百余キロ、高速バスで二時間である。折から、国際天文学連合は、冥王星を格下げして、惑星号剥奪に決めた。
科学史の街角39 「幻の古陶・珠洲焼〜中世窯の故郷・奥能登は海路の要衝」金子務
 金沢からの高速バスで3時間あまり、低い屋根の連なる街道を抜けると、奥能登の終点、金ヶ崎であった。海の民が生んだ幻の古陶、珠洲焼で知る珠洲市奥座敷。陽も暮れ、シャンゼリゼの照明と見まごうホテルの夜景が、大伴家持も見た漆黒の海を背に浮かぶ。第三セクター経営とか。離れの温泉にゆっくり浸かり、翌朝、同じ敷地の市立珠洲焼資料館で、思いの丈、眼福にあずかった。
科学史の街角40 「からくり師大野弁吉〜北陸の奇才と海運王銭五の友情」金子務
 日本海に突き出た金沢港の先端、波しぶきもかかろうという大野の御台場跡に、奇才、大野弁吉の業績を記念したからくり記念館がある。鍋の蓋に天窓がついたような楕円形大屋根を、角材を斜めに組み、透明ガラスに障子をはめた脚部が支える。28歳年下の弁吉を援助し、逆に弁吉から新知識を吸収した海商、銭屋五兵衛(通称銭五)の持ち船をイメージした。内井昭蔵氏の設計という。
科学史の街角41 「迫真の画家伊藤若冲〜博物画の白眉、新奇な「動植綵繪」」金子務
 修復なった伊藤若冲[じゃくちゅう]の最高傑作「動植綵繪」[どうしょくさいえ]全30点が、6点ずつ、宮内庁三の丸尚蔵館で9月まで公開された。若冲描く「釈迦三尊像」を荘厳するもので、画中の動植物は、釈迦の教えを聴聞している。1769年(明和6)に京の相国寺方丈を飾って以来、各種法要や明治5年の第一回京都博覧会で飾られたが、1889年(明治22)皇室に献上されてから、全点通覧は初めてという。
科学史の街角42 「石見銀山の遺跡〜大航海時代の死命を制した岩見銀」金子務
 初秋、史上名高い石見[いわみ]銀山を訪ねてきた。

 なにしろ室町期1526年(大永6)の「光り輝く山」発見以来、江戸半ばまで、わが国の主要輸出品であった銀を供給し続けた。江戸初期で年間約一万貫(38トン)。世界の産出銀の三分の一を占めた日本銀の、主要鉱山である。ザヴィエルら宣教師も絶賛した高品質の岩見銀(「ソーマ」銀と呼ばれた)は、大航海時代の世界交易に多大の貢献をした。このほど石見銀山は、山陰山奥の歴史の闇から世界遺産暫定登録へと躍り出た。
科学史の街角43 「岩見守大久保長安〜岩見・佐渡鉱山を支配した異能奉行」金子務
 石見銀山の龍源寺間歩(坑道)を通り抜けて、川伝いに降りると、国指定史跡佐毘売山[さひめやま]神社入り口である。九九段の石段を上ると、大内氏勧請の社殿。古事記にも載る精錬の神、金山彦命[かなやまひこのみこと]を祀る。日朝貿易、明貿易で巨利を得た大内氏は、国際決済に大量の岩見銀を当てた。銀支配権は尼子氏、毛利氏に移り、関ヶ原以降徳川氏に。
科学史の街角44 「フェイディアスの鑿〜ゼウス像を造った巨匠の工房遺跡」金子務
 古代七不思議の一つに、古代オリンピックの誕生地、オリンピアのゼウス神殿を飾る巨大ゼウス坐像があった。古代ギリシアの天才彫刻家、フェイディアス(前490〜30年頃)最後の傑作。
科学史の街角45 「古代中国楽器・編鐘〜孔子も聴いた中国式カリヨンの音色」金子務
 武漢三鎭の武晶・漢口・漢陽からなる武漢は、中国中南部、長江要衝の港町。大きな東湖が荒削りな風光を見せる。国際シンポ会場の武漢大学は広さが中国一、緑豊かでスズカケの並木や桜の名所もある。旧日本軍の病院跡が女子寮に。合間に湖北省博物館に行った。1978年夏、中国を涌かせた奇跡の大発見、曽侯乙墓[そうこういつぼ]の出土文物を見、孔子時代の音色を聴きたいと思ったのだ。正面建物の左右に陳列館があり、右が編鐘[へんしょう]館である。
科学史の街角46 「編鐘と音階〜度量衡も決めた五オクターブの威力」金子務
 曽侯乙墓の発掘から、編鐘など中国古代楽器の解明が進み、中国独自な音楽上の発明があったことが分かってきた。音楽理論はこれまで、古代ギリシアに始まり西欧で確立、それがシルクロードを伝わって中国にも入った、とされた。なにしろギリシア古代から、音
楽は数学・天文学と隣接する基本教科で、弦長と和音の関係は、ピュタゴラス教団発見の根本真理。
科学史の街角47 「銭塘江の秋濤〜月の引力が起こす海水の大逆流現象」金子務
 風光明媚なこと、「上に天堂(天国)あれば下に蘇杭(蘇州と杭州)あり」といわれる杭州。12世紀南宋の、いま浙江省の都。上海から南西に高速で二時間である。「七山一水二分田」、七割が山、一割が水という浙江省が生んだ観光目玉の第一が西湖。三方は山、詩人蘇東坡[そとうば](蘇軾[そしょく])が詠う。「晴れてまさに好く、雨もまた奇なり」と、水光山色を美女西施[せいし]に例え、「淡粧濃沫(薄化粧厚化粧)すべて相宜[よろ]し」と。仲間と船頭付き櫓船で遊んだ。一周二時間90元(1500円)。
科学史の街角48 「ミニミニ分水嶺〜日本海か太平洋か、水の運命の岐路」金子務
 久しぶりに宮城県奥、鳴子峡の紅葉を満喫した。目にも鮮やか、白い橋越えの山並みは赤黄緑の階調に染め抜かれていた。翌日、千余の階段を登った山形県境の山寺も燃え立つ木々に包まれていた。気づいたら芭蕉縁の「奥の細道」コースであった。「蚤虱[のみしらみ]馬の尿[しと]する枕元」で知られる「封人の家」近くで売っていた、山採りのサルノコシカケとか大ナメコとかのキノコの山に、秋を満喫した。
科学史の街角49 「華岡青洲の里〜江戸末、全身麻酔手術の現場春林軒」金子務
 東京駅から新幹線・特急を乗り継ぎ、和歌山線名手[なて]駅に出るのに優に五時間。私は、和歌山市博物館での記念講演を明日に控え、晩秋の一日、華岡青洲[はなおかせいしゅう]の故郷、「青洲の里」詣でに出かけた。
科学史の街角50 「ガリレオの振り子〜等時性を発見したピサ寺院のランプ跡」金子務
ピサといえばあの斜塔で有名である。12世紀に着工、斜めのまま翌世紀に完成したが、観光客はみな斜めになって記念撮影していた。もう何年も前の冬だった。ピサ市街は、ピサ山脈を背負い、10キロ先の海岸まで肥沃な土地がつづく。冷たい北風を山がさえぎり、北イタリアでも温暖な地だ。
科学史の街角51 「アインシュタインの国籍」金子務
 19世紀フランスの微生物学者パスツールの言に「科学は国境を越える」とあるが、彼自身は愛国者だった。地球上が民族国家に細分されるいま、科学界最高のノーベル賞も国別に獲得数を競う。それだけに有力科学者の国籍問題は深刻である。
科学史の街角52 「湯川秀樹の直観〜中間子理論の誕生と大胆な独創性」金子務
 湯川秀樹は1907年1月23日生まれだから、2007年は生誕百年である。学会の合間に京大総合博物館の企画展を覗いてきた。前年に100年を迎えた朝永振一郎とは、もつれあう同行の人生行路だ。京都一中、旧制三高、京大物理学科と同窓、ともに量子力学を専
攻。やがて東西に別れるが、、湯川1949年、朝永1965年と時期の先後はあるが、ともにノーベル物理学賞を受賞した。
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