なぜマヨルカ島か
楽聖ショパンのピアノが、スペイン東南沖二〇〇キロ、地中海西域の南欧の島に眠っていました。
マヨルカ島、といえば、サッカーフアンなら、日本代表の大久保嘉人の移籍先のチームがあったね、と思い出すでしょう。音楽好きなら、あのショパンと男装 の女流作家ジョルジュ・サンドが愛の逃避行をした島か、と納得されるでしょう。スペイン領バレアレス諸島にある最大の島で、面積は淡路島の六個分。バルセ ロナから南下する定期連絡船で一一時間かかります。近世初頭、この島にはマヨルカ王国が地中海貿易の一大拠点として栄え、オリーブやアーモンドのほか焼き 物も輸出して、イタリアの彩色陶器マヨルカ焼にその名を刻みます。
斧の形をした島の各所には、ビーチと断崖が連なり、数ヶ月の冬の雨期を除けば、抜けるような空と陽光に恵まれた観光保養地です。人口七三万人の島が、シーズンには倍になるそうです。とくにドイツ人が多く、ために、ドイツのハワイともいわれます。
私は、震災後の六月、家内と友人の三人連れで、米系超大型の新造客船に乗り、地中海を横断して訪ねました。船は一三万トン、五〇〇〇人乗り、巡航速度二 二ノット。赤と紺の嘴のような煙突。シチリア島メッシーナ港を夕刻に発ち、まだ噴気たなびくストロンボリ火山の夜景を、一二層目の屋上デッキから間近に眺 めて、八層目のテラス付き船室に戻ったのです。寝ている間に、船は静かにサルディニア島の南端をかすめ、翌朝早く、朝焼けの島影となって輝くマヨルカ島西 南端のパルマ港に入りました。
パルマ・デ・マヨルカはマヨルカ島の中心都市で、港近くの一七世紀に建ったカテドラルは、あの建築家ガウディが後に設計した祭壇で有名です。画家ジョア ン・ミロが一九三〇年代から死ぬまで、パルマに大きなアトリエを設け、絵画のほか壁画の大作に取り組みました。西方の小高い丘には、マヨルカ王の離宮だっ たベルベル城が聳えています。
その奥へ、車で三,四〇分ほど(ショパンたちは馬車で三時間もかけてでしたが)、初めは農園の中をだらだらと、やがて岩山の迫る急峻となる山道を、北西 にたどると、村に出、車を捨てて上っていくとカルトゥハ修道院がありました。そこに、ショパンがパリから苦労して取り寄せ、「雨だれ」を含む前奏曲を作曲 したアップライト・ピアノがあったのです。木目も美しい茶褐色のマホガニー製で、黒鍵三二、白鍵四六、計七八鍵(いまのピアノは黒鍵三六、白鍵五二の計八 八鍵が標準)、二〇〇キロを優に超える重さでしょう。これが税関に引っかかって難渋した、という話を現地で聞き、調べる気になったのです。
もう少し、マヨルカ島の説明をしておきます。
マヨルカ島は、中世末、シチリア島やトレドなどと並ぶ大翻訳センターの一つとして、ルネッサンスの夜明けを告げる地でした。中世期に忘れ去られていた古 典ギリシアの知的伝統を、アラビア文献から発掘し直す運動を一二世紀ルネッサンスと呼んでいますが、ライモンドゥス・ルルスという学僧が、翻訳学派の一つ を一二七六年に結成したのです。ショパンらが籠もったカルトゥハ修道院のあるヴァルデモサ村から、五キロほど北に行ったミラマール村が、その場所で、そこ にルルスの銅像もあります。アラゴン王の部下であるキリスト教徒が、美しいムーア人の島であったパルマを占領し略奪の限りを尽くしたのは、その半世紀前の 一二二九年のことです。
プレイエルのピアノ
昨年はショパン(一八一〇~四九)生誕二百年で内外ともに賑やかでした。とりわけ、全曲演奏に挑戦したピアニスト仲道郁代さんの、一八三九年(ショパン 全盛期)のプレイエル社製グランド・ピアノによる演奏会(サントリーホール、二〇一〇年二月)は、注目を集め、放送もされました。ショパンがピアノの詩人 といわれるのは、プレイエル・ピアノの魔法の響きがあってこそ、といわれてきました。それが再現されたのですから。マヨルカにある問題のピアノも、もちろ んプレイエル社のものでした。
ピアノが登場したのは一八世紀フィレンツェのメディチ家の工房といわれています。同じ鍵盤楽器のもっと古いオルガンは、パイプに風を送って音を出すの で、発音機構がピアノと違います。ピアノは指で鍵盤を叩くと、それと連動してハンマーがピンと張った弦を叩く。ですから弦楽器の一種、打弦楽器です。ピア ノ(弱音)もフォルテ(強音)も指のタッチで自在に表現できるので初めは「ピアノフォルテ」と呼ばれ、やがて「ピアノ」(英仏伊語は共通。独語は「ハン マークラヴィーア」)になったそうです。以来、音量・音色・音域を豊かにするために、多くの職人が腕を揮います。とくに打弦装置(アクション)に心血を注 いだのです。
初めからピアノを弾き、ピアノの進化とともに幅広いピアノ・ソナタを作曲した人物はベートーベンですが、ショパンといえば、プレイエル・ピアノに出会って、その音楽世界を大きく開花したのです。
一九世紀前半のパリ・ピアノ界では、エラール社とプレイエル社が競っていました。いずれも弦の張力に耐える鉄製フレームに特徴があるイギリスのブロードウッド型をモデルに、工夫を加えたものです。
先行した職人のセバスティアン・エラールは反復打弦を可能にするダブル・エスケイプメント・アクションを導入し、やや遅れて一八〇七年に参入するイグ ナーツ・プレイエルおよびカミーユ父子は、発明家アンリ・パープの協力で、フェルト製ハンマーや交叉弦などの新技術を導入していきます。
ショパンは、パリのアパートにはプレイエルとエラールとブロードウッドのピアノを計三台持っていたそうですが、体調の悪いときには安定した音を出すエ ラール、好いときは自由に音を生み出せるプレイエルを弾いていた、と言われます。つまりプレイエルは、ショパンの運指とペダル遣いに、繊細で柔らかな音を 響かせて応える名器だったのでしょう。
ショパンとサンド
ショパンもサンドも当時すでに有名人でした。
サンドは作家のミュッセやメリメと恋愛を重ね、直前まで娘の若い家庭教師を愛人にしていました。夫の男爵とは一八三六年に別居しましたが、王政復古下の 離婚禁止令で、形は夫婦のままでした。サンドの著作年収は約二万五〇〇〇フラン(一フラン約千円)、土地の年収七八〇〇フラン。全集計画で五万フランのあ てがあっても、二人の若い息子と娘を養育し、ノアンの屋敷が派手なサロンになっていたので出費も嵩み、ペンを走らせる作家生活でした。
ポーランドの貴公子然としていたショパンは、パリの貴族社会でおおもてでした。大富豪ロスチャイルド男爵のサロン音楽会に招かれてから、男爵夫人と娘が レッスンを受け、この噂で貴婦人たちがショパンのしなやかな白い手による指導を願ったからです。レッスン料一回二〇フランを、多いときには一日に七人もこ なしたそうです。生徒にはコンサート用のグランド・ピアノを使わせ、自分はアップライト型で指導しました。ショパンは、サロンで弾けば一回に二、三〇〇フ ランの謝礼があり、楽譜の出版権料も入ったのですから、生活に困るはずもありませんが、服装や居室、馬車に贅を尽くしていましたから、こちらも出費が嵩さ んだことでしょう。
この二人がリストの紹介で、初めて出会ったのは一八三六年。ショパン二六歳のときでした。タバコを吸う七歳年上の男装の麗人作家サンドには好感を持てな かったのですが、貴族の若い娘と婚約破談した直後の翌年一〇月には、ショパンは、日記に「三度あの人〔サンド〕に会った。ピアノを弾いているあいだ、目の 中まで深く見つめるのだった」とあります。サンドが醸す母性的な癒しと環境の中で、ショパンは天上の霊感と繊細な詩情で応えながら、その愛の罠に、絡め取 られていったのです。
ノアンの家で画家ドラクロワが、この二人の情景を有名な画に遺しました。サンド死後、画は二分され、ショパンの肖像はパリのルーブルに、サンドのそれはコペンハーゲン郊外の美術館にあります。
マヨルカのピアノ
それから一年後の秋、一九三八年一一月七日夕には、この二人が、バルセロナからマヨルカ行きの小さな蒸気船に乗っています。サンドに嫉妬した若い家庭教師の愛人とショパンが、決闘騒ぎになるのを避けたのでしょう。パルマ入港は翌日午前一一時半。
サンドは息子と娘の二人に女中を連れ、これに咳をし結核を疑われたショパンが加わっての、一行五人です。スペインの内戦を避けてやってきた亡命貴族も多かったため、宿探しにサンドが苦労します。
当時、結核は恐ろしい伝染病と考えられていて、やっと決まったボロ宿からも追い出されます。法律で結核患者のベッドなどは焼却処分にするということで、 高い宿泊料金が請求されたのです。そこでフランス領事の紹介で、町を北に六キロも離れて家具付き貸別荘「風の家」を月五〇フランで借りますが、それも一ヶ 月足らずでまたも結核を疑われて追い立てを食います。
しかし幸運にも、一八キロ奥のヴァルデモサの修道院に避難していたスペイン貴族夫妻が、なぜか出立を急ぎ、そのあと年三五フラン、家具代一〇〇〇フラン でよい、という話が急に起こって、オレンジとレモンの木がいっぱいある庭付きの、三部屋からなる庵室を借ります。サンドの紀行本『マヨルカの冬』(小坂裕 子訳)に詳しいです。
この修道院は、会則によって院長以下一三人いたので庵室は計一三(各三部屋ずつ)あり、一八三六年の一二人以下僧院取り壊し例は免れましたが、すべての 修道院同様に解散・国有化され、マヨルカでは住みたい人に貸し出されていました。賃貸料がきわめて安いのに、島の住民たちが住まなかったのは信仰から来る 畏れのため、とサンドは言います。
話をピアノ問題に絞りましょう。
ショパンは旅行に出かける前に、ピアノをマヨルカに送るよう、プレイエル社に手配しておいたのです。長期滞在の覚悟があってのことでしょう。一二月三日 には現地のピアノを借りましたが、これでは作曲もはかどらない。待望のプレイエル・ピアノがパルマの港に着いたのは同年一二月末でした。
ところがフランスからの輸入関税七〇〇フラン、というのです。「これでは楽器の値段とほとんど変わりない」とサンドが怒り、ショパンも法外な要求に、 「ここでは自然は恵み深いが、人間は詐欺師だ」と知人への手紙に悪罵しています。それなら送り返そうとしても許されない。さらに城門税といって街の外に持 ち出すのにも税金がかかる。戦闘的なサンドが、海に投げ捨てる覚悟で三週間に近い交渉の結果、関税は三〇〇フランを負かせて四〇〇フラン(約四〇万円)と し、城門税は抜け道から出すことにして免れたようです。こうして待望のピアノがショパンの手元に届いたのは、年を越して一月一五日頃、になってからでし た。
ピアノその後
ショパンの最高傑作・前奏曲集(作品28、「二四の前奏曲」)が生まれたのは、このマヨルカでした。その一つ、サンドが「雨だれ」と呼んで有名になった 曲があります。一二月初めまでは、まだレモンやミルテ(銀梅花)の花々の匂いを乗せてくる夜風にあたって静寂な夜を、よくサンドと子供たちが散歩に出か け、いくらか健康を取り戻したショパンは作曲に打ち込むのですが、突然、激しい雨がやってきます。冬の雨期の到来です。ショパンは心配のあまり、夢うつつ の中で、僧院の屋根を打つ雨だれの音を聞きながらこれを作曲した、とサンドは言います。
ショパンとサンドは初春の二月一三日にマヨルカを去り、マルセーユ経由でパリに戻ります。マヨルカ滞在三ヶ月あまり。ピアノは港の税関宛てに送ったので すが、出国税が高く、売却することにしたのです。しかし結核を恐れて買い手が付きません。結局、銀行家の夫人でショパン・ファンが、自分のピアノを知人に 譲って、元値より高い一二〇〇フランで買ってもらえたのです。こうして、いまショパンのピアノがマヨルカに遺る結果となったのです。
ショパンがサンドと別れたのは、マヨルカ行きから九年後の一八四七年一一月です。ショパンのために、サンドはプレイエル社のグランド・ピアノを借り上げて、ノアンの屋敷の二階に置いていたのですが、それをプレイエル社に送り返した年月です。
ショパンが最後まで使っていたグランド・ピアノは、他の遺品とともに匿名オークションで売られ、弟子の一人で「ショパン未亡人」と揶揄された英国人スターリング嬢が落札し、ショパンの姉がいるワルシャワに送られました。
なお、文中の写真は問題の僧院にあるプレイエル・ピアノ。画は、サンドの長男で当時一五歳のモーリス・サンド(ドラクロワの弟子)の描く水彩画(僧院の 庭と水飲み場)とデッサン(ヴァルデモサ村でオレンジを食うサンド兄妹、妹の名はソランジュ)。英語版George Sand, A Winter in Majorca,1998, Majorca から。
『鎌倉三日会会報』平成23年度第2号
pp25-31