大審問官が突きつけるもの(国民読書年に寄せて、私の一冊、ドストイエフスキー『カラマーゾフの兄弟』から)
薦めたい本ならいろいろある。
とくに本会会員には、伊東俊太郎先生の『近代科学の源流』(旧自然選書、いま中公文庫)はぜひぜひ、と言いたい。壮大な中世思想史を読み解いて科学思考 の淵源を博捜する、若き日の先生の迫力に感嘆して欲しい。文庫版には私の拙い解説も載せてある。
もう一つ、三木成夫氏の『胎児の世界』(中公新書)を挙げたい。三木さんの思想が重要なのは、多年にわたる比較解剖学、鶏卵の実験発生学や人間胎児の顔 貌観察などによって、ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」というテーゼを実証し、「生命記憶」に内実な重みを与えたこと、また、植物的なる構造 が、われわれ動物器官の内部に埋め込まれていて、地球・太陽系の環境と深く関わること、また人間の身体構造の根源を考えさせる点にある。
若いときからの愛読書といえば、人生の意味を教わった『戦争と平和』と『カラマーゾフの兄弟』が双璧である。ドストイエフスキーはトルストイの『戦争と 平和』に刺激されて、その向こうを張るような大作に挑んだのが後者だ、といわれる。何が何でも一冊に絞るのなら、1879年から80年にかけて書かれた、 この『カラマーゾフの兄弟』になるだろう。
投獄・軍隊・流刑・転向体験を経たドストイエフスキーには、不信と懐疑が深まるほど神への渇望に身を焦がすパラドックスがある。トルストイにはない人間 の闇や無意識の問題が描かれているのが魅力である。ドストイエフスキー本は最近亀山郁夫氏の名訳が現れているが、私は、古い米川正夫訳の岩波文庫本に慣れ 親しんできた。久しぶりに書庫を探してページを繰ったら、半世紀に及ぶ赤青黒のペンや鉛筆の書き込みがあって、思わずあちこち読み直してしまった。よく読 んだ時期は大学紛争取材に明け暮れた60年代で、わが枕頭の書であった。いまも、科学と宗教の関係を考えるのに重要な一書であると思う。
とりわけ私の念頭にこびりついている場面は、例の異端審問の町に現れたという、イエスを裁く劇中劇「大審問官」である。40日間荒野を彷徨うイエスが、 悪魔(米川訳では精霊)の三つの試みという誘惑を、いずれも退ける聖書の話が軸になる。「世界中の智慧を一束ねにしてみたところで、力と深みにおいて、こ の三つの問いに匹敵するようなものは考え出せない」と、大審問官ないし無神論者イワンが断じる重い問いであり、科学思想上も見逃せない問いだと思うのであ る。しかし退けたはずの奇蹟と神秘と教権に立つのが、神の代理人である法王庁だ、と、この劇中劇で痛罵し、一方で肯定もするのである。
この三つの試しを巡る、劇中劇作者であるイワンの論点を纏めておこう。
飢餓状態のイエスに、悪魔が、まず、お前は神の子なのだから、そこらの石をパンに変えたらいいじゃないか、と囁く。「石をもてパンになす」奇蹟の誘いで ある。これをイエスが拒むのは、そうすれば人々の自由を奪うことにあるからだ、とイワンはいう。奇蹟を見た大衆は、良心の自由などさっさと捨てて、その奇 蹟者に隷属する。天上のパン(自由)よりも地上のパンで服従を買うのが、選ばれし者でない一般人の平安を好む生き方だ、と。
第二の試みは、悪魔がイエスを高い塔の頂に立たせて、自分が神の子かどうか知りたければ、ここから飛び降りよ。地に落ちて粉々になる前に天使に受け止め てもらえるから、と唆す。イエスは、「われ神を試さず」として拒否する。イワンは、多くの者は奇蹟なしに神と暮らせるはずがない、という。イエスは人間を 奇蹟の奴隷にすることを望まず、自由な信仰を渇望したが、多くの人間は、勝手に奇蹟や妖術を作り出し、それを信じずには生きてゆけないのだ、と。イワン は、科学と自由は両立せず、と断じる。
第三の試みは、悪魔がイエスと宮居に立って、四囲のすべて、地上の王国の支配権をあたえる、と誘った。イエスは憤然と退ける。しかしローマ教会は、 「彼、悪魔の手からローマとケーザルの剣を取って、われわれのみが地上における唯一の王者だと宣言した」と。
イエスは、けっきょく、焚刑にしようとして捕らえた大審問官の問いに、無言の口づけを与えて、16世紀セヴィリアの巷に消えていく。
ここで突きつけられている問いは、信仰心の堅い選ばれし者たちと、信仰心を容易にパンにも替える一般人との懸隔の大きさを浮かび上がらせていて、目眩が するほどである。しかしヴァチカンのみならず、19世紀以来の国民国家の多くは、どこも、政治目的として一般大衆である国民の地上的幸福を追求する組織で あり続ける。「最小不幸社会の実現」とかいうお題目も、政教分離を前提にした地上的パンの保証が目標であろう。それが悪魔と手を組むことになるのだろう か。
この劇中劇の痛罵は私の胸にも突き刺さる。「石をパンに変える」試みも、「高所から飛び降りてみる」冒険も、はたまた「地上に楽園を作る」願いも、実は 科学技術の目指すところではないのか、と。科学技術が進んでも、ものや状態を変えることができるだけであって、無から有を生み出す奇蹟はできないだろう。 遺伝子工学や宇宙航空安全工学、温暖化防止技術も、この悪魔の類になるのであろうか。イエスは、天上の火を盗み、地上のパンどころか新DNAの創成にも手 を染める科学技術を斥けるのだろうか。
回答を迫れているのは、私も含めた現代のわれわれ一人一人なのであろう。
『科哲』(東大科哲の会会誌)第12号、2010年10月