武漢三鎭の武晶・漢口・漢陽からなる武漢は、中国中南部、長江、漢 水の二つの河水の合流点にあり、上海・重慶を結ぶ水運の要衝である。辛亥革命の起こった武昭、日本を含む各国の租界もあった漢口、工業化著しい漢陽の三街 区に別れ、とくに大きな東湖と武漢三山が荒削りな風光を見せる。国際シンポ会場の武漢大学はキャンパスの広さが中国一、緑豊かでスズカケの並木や桜の名所 もある。旧日本軍の病院跡が女子寮になっていた。

合間に、数人の仲間たちと湖北省博物館に行った。1978年夏、中国を涌かせた奇跡の大発見、曽侯乙墓[そうこういつぼ]の文物を見、孔子時代の音色を 聴きたいと思ったのである。東湖の堤を横切って十数分も行くと、広々とした建物の一角に着いた。いかにも新しい正面建物の左右に陳列館があり、右が訪れよ うとしている編鐘[へんしょう]館である。

孔子は貧乏な魯の国の人だが、隣の豊かな斎の国の王に招かれて、そこで韶(古代中国五帝の一人、堯を継いだ舜のこと)の音楽を三ヶ月も聴き、すっかり感 動して肉の味も忘れたという。「図らざりき。楽を為すことのここに至らんとは」(『論語・述而第七』)つまり、音楽がこれほど素晴らしいとは思いも寄らな かった、と叫んだ。その孔子のいた時代から半世紀しか経っていない王室の礼楽器一式が見つかって、ここに収まっているのである。演奏も聴けるかも知れな い、と耳にしていた。これは学会発表をすませた身には、魅惑的な体験である。孔子曰く、「詩に興り、礼に立ち、楽になる」(『論語・泰伯第八』)、人間の 教養は詩によって奮い立ち、礼によって安定し、音楽によって完成するのである。学会への遠慮は無用である。

曽乙という王侯の出土品と編鐘の音色
殷に代わって中国を統治した周王朝は、諸侯を任じて国を治めさせた。曽侯は封建140余侯の一人、名が乙。その墓、岩盤に堀込まれた、竪穴式の梓製木槨 [もっかく]四室が手つかずで発掘されたのだ。武漢北西の随州市域。東室には二重の主棺と陪葬棺、漆器、金器、玉器が、中室には注目の編鐘など礼楽器が、 北室には車馬器、武器、木簡など、西室には別の陪葬棺類があった。
乙侯の曽国は春秋時代、随とも記録された王国で、紀元前506年随王は、呉王に攻められて逃げ込んできた楚の昭王を匿ったという。その王の墓に、礼器、 楽器、兵器、車馬器、金玉器、漆木製品、竹簡など文物が大量1万5000点余も。展示品では、とりわけ二抱えもある巨大な尊盤など青銅器群が圧巻。総重量 10.5トン、6千数百点と質量ともに空前絶後、中国青銅器文明の頂点を極める。蝋型法の確立が青銅器の迅速・大量鋳造を可能にしたのだが、中央貴族に対 する地方豪族の力を誇示したものか。

なかでも断面扁平な大小六五個の編鐘、中国式カリヨン群4.4トンが、そっくり出土とのニュースに世界がどよめいた。それがいま三層八組で、薄暗い一室 の架台三段に並ぶ。孔子が礼楽を政治思想の基本に据えたその中心楽器である。

私は深い感慨なしには、この古代楽器の雄を見られなかった。編鐘は高さ20センチから150センチ余り、重さ2.4キロから最大203.6キロある。上 段小形の高透な音色の鈕鐘[ちゅうしょう]19個、主旋律を奏でる中段中型の甬鐘[ようしょう]33個、下段大型の伴奏用甬鐘12個。ほかに曽侯乙の死を 悼み楚王が紀元前433年に贈った在銘はく鐘[はくしょう]一個が下段中央に置かれている。ここには本来、最大の甬鐘がある位置だが、南の大国の楚の恵王 が73年前に父昭王を掬ってくれた曽の現国王である乙侯の死を悼んで贈ってきたもので、特等席に置かれたのであろう。因みにこの紀元前433年は孔子没後 46年後、アテネにパルテノン神殿が完成する5年後、ギリシアのポリスを二分するペロポネソス戦争勃発の2年前である。

われわれは、入館料の他に10元(160円)出して、館内ホールの復元編鐘演奏を聴いた。編鐘の楽士は5人。2人が長い棒で下層の大型編鐘を撞き、架台 後の3人は両手の槌で中・上段の編鐘を叩く。前方の席に着いている美女たち5,6人が鼓や笙[しょう]・瑟[しつ]・横笛で編鐘こ合わせた。小曲をいくつ か披露した後、戦国時代の楚国の政治家・詩人で祖国の悲運に湖南省汨羅[べきら]の淵に身を投げた屈原を題材にした、悲壮な「楚商」の音色には感動した。 これで私は、孔子様の感動のお裾分けにいくぶんでも預かった気になった。最後にお馴染みの「第九」の一節まで飛び出したのには驚いた。編鐘は現代音楽の音 階も十分にカヴァーできるのである。

度量衡も決めた五オクターブの威力
曽侯乙墓の発掘から、編鐘など中国古代楽器の解明が進み、中国独自な音楽上の発明が多々あったことが分かってきた。音楽理論はこれまで、古代ギリシアに 始まり西欧で確立、それがシルクロードを伝わって中国にも入った、とされた。なにしろギリシア古代から、音楽は数学・天文学と隣接する基本教科で、弦長と 和音の関係は、ピュタゴラス教団発見の根本真理といわれてきたのである。このことが直ちに否定されたわけではないが、中国独自の音楽論の展開がいろいろ あったことが報告されている。

まず編鐘が、だてに扁平をしている鐘ではないことが、明確になった。先秦時代の鐘は、正面か側面か、叩く位置によって二種の音を出す(一鐘双音)が、つ ねに長三度(たとえばドとミ)か短三度(ミとソと)違う音を出すよう、開口部の肉厚や扁平度で調整していることを、曽侯乙の編鐘が立証した。この「一鐘双 音」の機能は大きい。また編鐘は全体として五オクターブ余りの壮大な音を出せ、とりわけ中央の3オクターブなら、いまのピアノ鍵盤が出す全音に対応できる という。

中国式の12音階も西欧以前にあったようである。隣り合う2つの絶対音(半音)の開きが、どこでも一定になるよう平均化した、平均律に近い12音階は、 西欧では18世紀以降確立する。この12律が、古代中国では独自に「三分損益法」で求められていた。三分、すなわち基準長の三分の一だけ、足したり減らし たりして求める方法である。基準音を出す黄鐘律(笛)の管長を1として、その三分(3分の1)損になる2/3だけの長さの管を作り、また別にその三分益4 /3になる8/9の長さの管(2/3×4/3=8/9)を作る、等々。

曽侯乙墓からは、黄鐘律を含む8種125個の楽器が出ている。これらは、編鐘や架台、鐘架け部品などにある銘文、三七五五文字の解読から、古代中国の戦 国時代においても、楽律の知識が高度に発達していたことが分かってきた。拍子・音の長さ・リズム・速度などへの配慮は欠けているが、基本的な楽譜を作るに 十分な楽律をもっていたと見られる。なお実際に中国で楽譜の出現が確認されるのは、ははるか後の、紀元七世紀以降の唐代になってからである。

古代中国の楽器でもう一つ注目を惹くのは、度量衡の基準に律管(笛)が用いられた、ということである。弦では引っ張り強度によって音が変わってしまう が、管ならそういう変化がない。そこで、長さ(度)は、12律の基準音である黄鐘の律管の長さ九寸を基準にし、容積(量)はその律管容積の半分を桝の基準 に採用し、重さ(衡)の基準はその容積を水で満たして定めたのである。

なお中国の度量衡統一は、春秋時代末、東方六ヶ国を併合した秦の始皇帝によって完成したといわれる。始皇帝は標準的な物差しと桝と分銅を定め、それらに 紀年・詔文を書き付けさせて全国に流布させたという。

『三日会鎌倉』平成18年第2号(2006年11月) 2-5頁掲載