対象書名:上山明博著『「うま味」を発見した男』PHP研究所、1,700円(税別)
掲載紙 :『公明新聞』2011年8月29日号文化欄

味の素発明者、池田菊苗の評伝小説である

「御一新の風」から「レイリー散乱の空」までの人生劇全八幕を、科学的精確さも保ちながら物語る。 評者は力量のある先輩化学史家・廣田鋼蔵氏の著作な どで、東大教授の副業的所産の発明が私設助手と自宅研究室で遂行されたことなどは承知していたが、本書の白眉は、菊苗が「ロンドンの漱石」と53日間に及 ぶ同宿生活で、自由に論じあった有名な「事件」の詳細である。

菊苗の骨太な、マッハやオストヴァルト流の感覚一元論とともに語られる科学認識論が、漱石の英文学研究に大きな触媒になった、と上山氏は活写する。これ は、1901年(明治34)、20世紀初頭に文学と科学の異分野を貫いて起こった希有な出来事であるから、「事件」と評者は見る。

味の素の共同特許人になる二代目鈴木三郎助の登場で、製品化が成り、菊苗の念願、日本人の栄養改善と体格の向上への一助につながっていく。 特許権成立 後間もない1908年(明治41)夏、その決定的試食会が、上野・静養軒や帝国ホテルと並ぶ西洋料理の名所、銀座の凬月堂二階で開かれる。その第五幕「食 道楽の晩餐」が、もう一つの見所である。

昆布の下地とばかり思って高級フランス料理を楽しんだ評論家・天皇料理人といった達人たちの舌が、菊苗が取り出したうま味成分、〈第五の味〉グルタミン 酸ソーダ、商品名「味の素」の振りかけにだまされる場面である。怒りと無念さが飛び交う緊張の場面が、一転、了解と賛嘆の渦にかわる。小説でしか描きよう のない感情と理性の揺れが描かれる。

莫大な特許料を手にした晩年の菊苗は、ドイツのライプチッヒや日本で、触媒など、化学反応の基礎研究にあたった。これは、今日の野依良治・鈴木章・根岸 英一らのノーベル賞受賞研究の先触れになった、と評価される。