対象書名:『ブック・アートの世界、絵本からインスタレーションまで』中川素子・坂本満編、水声社、3000円(税別)
掲載紙:『形の文化研究』第3号
年:2007

 私もそうだが、大方の読者は書名の 「ブック・アート」と聞いても、アート・ブックつまり美術書と間違えたり、あるいは本の装丁や製本とかを思い浮かべたり、本に挟み込む挿絵を連想したりす るだろう。それも無理はない。編者である中川氏の前書きや坂本氏の談話記録などを読むと、ブック・アートという言い方は、今回、暫定的にとられた命名らし い。市民権を得ている語句ではない、というのである。それでもあえてブック・アートとしたのは、「本とアートの交差するところに生まれる世界」の拡がりを 見渡す「イメージ」、を指す言葉として、ひねり出されたようである。つまり、ブックそのものをアートの対象、オブジェとして過激に扱うことを指すようであ る。「過激に」というのは、理由あって評者が勝手に挿入したものである。

本来、書籍としての本には、機能として広く情報というものを伝達するメディア性が付いて回る。愛と憎しみの詩句を連ねたり、聖者たちの言行を文字に刻み つけたり、絵と文で幼い想像力を刺激したり、ときには無味乾燥だが宇宙の深層に直入する数学的記号を配置したりするのが、メディアとしての本であったはず である。しかし本書でアーティストがブックというとき、それは四書五経の書籍でもなく、聖性の権化であるホーリー・ブック(聖書)でもなく、本として公認 されてきた情報伝達という機能をはぎ取って、ずしりと重い角張った物体そのもの、表紙がありページが繰られる具象物としての書物としてのオブジェを指すよ うである。したがってブック・アートの世界では、ブックたちはアーチストによるさまざまな解体と介入と再編成に甘んじなければならない。どちらかといえば 愛書家に属する評者から見れば、そうしたアーティストの試みは理解できるが「過激」に見え、ブックたちの悲鳴を耳にするようで、まことに坐り心地が悪いの は事実である。

本書は、20世紀初頭から近年に至る内外のアーティスト三十数作品を紹介するかたちで、中川氏を含む4人の研究者(森田一・山田志麻子・田中友子氏ら) がエッセイを寄せてできている。表紙をくるむ腰巻きほぼ全身を包まんばかりに大きく、そこに大きく谷川俊太郎の詩「アートになるとき、本は著者を超えてそ れ自身の生命を生き始める」と詠われている。

内容を繰っていくと、アーティストの冒険は、時間を追って過激になるようだ。

テンペルやエルンストのコラージュも、マティスの切り紙絵も、まだテキストへの介入程度である。読み進んでコルビュジェの「直角の詩」になるとテキスト とオブジェの融合が始まり、ウィリアムスのコンクリート・ポエトリー本になると、文字がすでにオブジェに変わる。さらに記憶の堆積、心の風景につながるも のとして、柄澤斎の版画集「方丈記」やエイドリゲヴィチウスの絵本写真「読書する人」などが取り上げられる。しかし「過激」と思ったのは、表紙などのくる みに洞凸画板を使った稲垣足穂・中村宏の「機械学宣言」以下のブック・オブジェの作品群である。西村陽平の焼かれた粘土陶器のような「新修漢和辞典」や焼 け焦げの痕跡をたたえた鉄本「アイアン・ブック」などである。さらには未来の領域としてゴダードらによる鑑賞者の38本の指を並べた写真絵本「ホールド アップ」などなど。最後を締めているのが福本浩子の大小さまざまな穴あき行の本「バベルの本」であった。

いまアーティストたちが、本の解体をどう進めているかを知るには有益な本である。しかしこれまでのところ、グーテンベルク以来の書物の形態は基本的に健 在である。ブック・アートである限り、いくら破壊してもブックであるかたちが見えなければ「ブック」アートにならない、という自己撞着的アートの世界のた めであろう。いま出版不況の中で、ネット本がテキストの提示法を変革しつつあると同時に、アーティストたちが本の意味を奪って形態を変貌させる。考えてみ れば、21世紀はまさに書籍にとって、グーテンベルク以来最大の受難時代になったといえるかもしれない。