竹村民郎氏と戦後の民科運動・地団研のこと

 竹村民郎という人は誠実な篤学の士であるが、野次馬精神も大いに持ち合わせた方である。日文研の共同研究でよくお会いした。最初は葉山の総研大での会合だったと思うが、じつに丁重に挨拶されて面食らった。私は前から東西の産業革命史に興味を持っていて、講座の中で竹村氏のお名前は十分知っていた。この目の前のおしゃれな紳士が容易にまた羽目を外し、賑やかに座を取り持ちながら、ベランメー調で熱弁をふるうこともすぐ知った。

小生よりも四つ上の竹村氏は思春期を戦中から戦後にかけて過ごした世代で、旧制中学最後世代である私たち教科書墨消し・焼け跡派の青春よりも、その体験世界は多彩で変化に富んでいたろう。たとえば私が東大の駒場キャンパスに入った昭和二七年は、理論優先の唯物弁証法ブームで、アッチコッチに立て看が立ちお客(新入生)の奪い合いをやっていた。西田哲学転向組の柳田謙十郎の『弁証法十講』とか、レーニン、エンゲルス、スターリンの諸論も読んだが、素朴唯物論と貧弱な科学知識が眼について閉口し、生来パルタイを信じない私はゲシュタルト心理学や実存主義に魅力を感じ、一方、尻ポケットにはいつも『盤渓禅師語録』や『歎異抄』があった。大学では「農村へ!」を合い言葉に、農村工作隊に加わる友人も出てきて、メーデーその他のデモにはお祭り感覚で私も参加はしたが、超然主義者であったろう。その点、竹村氏は社会運動に若くから飛び込んでいった人である。それだけでもこの私には敬服に値するが、その体験を批判的にふまえて、グラムシ研究や大正文化論、兵器産業と独占資本論、公娼制度や満州研究などなどに纏め上げていった。その業績はとても数え切れない。

二人で会ってはあちこちに出歩いた。

ある時、芦屋を案内していただいたお礼に、鎌倉や銀座を案内したが、銀座画廊の月光荘に立ち寄った。私が大好きな美術や骨董にはあまり興味を示さない竹村氏が、この時にわかに元気づいて、女性店長に与謝野晶子と月光荘の話をしゃべり出し、書いたものを送るとまで約束しているではないか。後でその一文を読んだが、実によい文章で、本著作集にも収められている。愛妻を亡くし落ち込んでいる氏を誘って、公開中の吉野の秘仏・蔵王権現に会いに行った。このド迫力には「スゲー!」と感嘆しきりで、この時ばかりは無神論者の竹村氏も神妙に妻恋の祈りを捧げていた。

外国にも出かけた。

地中海クルーズでは、ナポリで赤いリュックを買って、しばらくそれは竹村氏の商標になった。船は噴煙を上げるストロンボリ火山を間近に見せてから、サルジニア島の南端をかすめた。展望デッキの長椅子で寡黙になった氏は、ポツリと私に、「グラムシの故郷だ」と言った。あァそうか、さぞや、島に降り立ちたかったことだろう。

満州研究の一環で、中国東北部の高句麗の旧都・集安では、二人して朝早くホテルを抜けて、北朝鮮との境界を流れる鴨緑江に出た。向こう岸を自転車に乗ったシルエットが動いていた。見ると観光ボートがあるではないか。寝ぼけ顔のボート屋に二人で交渉して、煙突から煙を出している工場らしきものが見える境界ぎりぎりの川中の地点まで行って、引き返してもらった。いい経験だった。こんな話はいくらでもある。切りがあるまい。

往復の車中や歩きながら、切れ切れに語る竹村氏の個人史が私には興味深かった。話題に上る共通の知人や友人もいろいろいた。井尻正二、武谷三男、荒正人、金光不二夫、服部学、安良城盛昭、等々の猛者連である。いずれも左翼の陣営だが、戦後の民科(民主主義科学者協会)運動といろいろな形で関わっていた。竹村氏は民科を歴研から眺め、科学技術思想に関心のある私は地団研を通して民科を見ていた。

太閤検地の研究で日本史研究者を震撼させた(服部之聡氏はこれを安良城旋風と呼んだ)安良城盛昭氏とは、後年、大阪府大の同僚として私は親しくなったが、「オレは古代から現代までのオールラウンドプレイヤーだ」と豪語して、社会史研究の網野史観などに噛みついていた。いつも汚いシャツとサンダル履きで大学の記念行事にも現れて物議を醸していた安良城氏は、竹村氏より二歳上で、キャラクターも野人と紳士で全く違う。学問的姿勢も一方はスマートなグラムシ西欧派の竹村氏、もう一方は怪力の沖縄土着派の安良城氏という違いはあった。しかし歴史研究では、方向はかなり違うが、ともに経済史を踏み越えて、天皇制に切り込み、差別の対象となった公娼制や部落問題を取り上げ、権威主義になった歴研批判にもたじろがず、という点では共通していた。私の尊敬する二人の先輩である。

竹村氏の著作集には、いろいろ教えられた。検証「国民のための歴史学」運動(著作集第五巻)は、民科についての考えを整理するのに大いに役だった。民科の理念は、一九四六年の共産党のいわゆる科学・技術テーゼ(綱領「日本の科学・技術の欠陥と共産主義者の任務」)に等しい。この科学・技術テーゼは、戦前の講座派ないしコミンテルンの三二年テーゼにもとづいて武谷三男氏らによってまとめ上げられたもので、封建制の打破とか独占資本主義とかいっても、もう時代は新憲法と農地解放をすませ、歴史的事実のほうが理念の先を行っていたと思う。

民科の広報担当は井尻正二氏であり、井尻氏は同時に牛来正夫氏とともに地団研のトップでもあった。井尻氏はにこやかな笑顔を絶やさず、筆が立つのでジャーナリズムの寵児であった。私は、一九五六,七年の駆け出し記者時代に、『科学読売』の連載担当となって、その池袋のお宅によく伺った。この人が共産党科学技術部長井尻教祖として、民科や地団研でどれほど猛威をふるっていたかは竹村氏の記述に詳しい。

民科や地団研は共産党の引き回しをもっとも先鋭に受けていたといえるだろう。草創期こそ、統一戦線と称して共産主義者を主軸にして自由主義に立つ人々も巻き込み、指導的物理学者の湯川・朝永両氏も加わっていた意味は大きい。しかし私はジャーナリストとして、一九六〇年代に、親しくした俊秀たち、例えば物理学の渡邊慧氏や梅沢博臣氏が武谷氏らに追われ、地質学の都城秋穂氏も地団研を避けて、いずれも相次いでアメリカに去っていったのを目撃している。

なにしろ地団研の面々は、いまは誰しも知っているプレ-トテクトニクス(以下PT)理論、すなわち、地球表面を覆う厚さ一〇〇キロで十数枚の板状の岩つまりプレートの運動によって、地震・噴火・造山運動を説明する理論を、唾棄すべき近代主義、親米主義として長いこと受け入れようとしなかった。唯物弁証法の精華ともてはやされた、旧ソ連のベロウゾフのマントル・ブロック垂直運動理論や日本独自な地向斜造山論を頼りに、海洋底拡大説(PT理論の先駆)を悪しき機械論として拒否していた。一九六〇年代の前半だったが、日本にやってきたベロウゾフ博士の話を聞く対談の場を、私は編集長の許可を得て、四谷の高級料亭福田屋に設定したら、その話を聞き込んだ地団研中堅の五,六人が許しもなく会場に押し寄せて、おれたちにも聞かせろ、と瀟洒な和室になだれ込んできたのを覚えている。この非常識さに呆れると同時に、私はかねてから危惧していた地団研の暴力団的学問屋の実体を見たと思った。

私の後輩で朝日新聞記者から科学史家に転じた泊次郎氏の名著『プレートテクトニクスの拒絶と受容』東京大学出版会、二〇〇八年)は、よく調べられた地団研の興亡史でもある。泊氏は、PT理論は世界的には一九六〇年代後半に出現し、欧米では七〇年代初めに地球科学の支配的パラダイムになったが、日本の地質学者の多くが受け入れたのは一九八〇年代、欧米より一〇年以上の遅れだった、と述べている。その通りと実感する。竹村氏の記述(とりわけ「資料 科学的方法論についての若干の問題」。職場の歴史をつくる会の討論を竹村氏が纏めたもの。これが地団研『科学運動』一九六六年の「あとがき」になったことが驚きだが)と自分のジャーナリスト体験と泊氏のアカデミックな論考をツキまぜて言えば、歴研にまで大きな影響を与えた地団研の研究方法にはスターリン主義が色濃かったと思う。

団体研究はその辺の共同研究とは違う、と井尻氏は言った。まず全員で話し合って、研究テーマを絞り、調査・研究方法も統一する。個人が発見した事実や発想も全員に提示して、討議する。ここまでは戦後民主主義と言えば言えるが、このあとさらに、選んだリーダーの指揮には絶対服従、と総括している。これではリーダーの資質や能力次第で、権威主義に容易に転化してしまうはずだ。地団研は、初期には、関東ローム層研究グループによる岩宿旧石器遺跡の発見などの成果を上げたが、やがて研究独裁主義のスターリン主義に陥っていく。唯物弁証法を振りかざして、井尻氏は団体研究法を言い、武谷氏は三段階理論(現象論的、実体論的、本質論的段階)を言うのだが、唯物弁証法の理解もそれぞれ自己流であった。新粒子の導入を鼓舞した三段階理論は名古屋の坂田昌一氏の二中間子論やその後の坂田モデルに影響を与えたが、団体研究法ともどもその基準に合わない敵には観念論とかブルジョワ的とかのレッテルを貼って片付ければよいというわけだ。学問論争は政治論争とは違うはずだ。しかしこの世界でも、一将功成って、万卒枯れる、個人崇拝と権威主義が濃厚になっていく。

井尻氏の権威は、竹村氏も記述するように、ルイセンコ論争にも介入した。一九五六年にわが国で国際遺伝学会が開かれ私も取材したが、これはミチューリンールイセンコ派の終わりの始まりでもあったと思う。ワトソンークリックの二重らせんモデルが提出されてすでに三年である。DNAからメッセンジャーRNAを媒介とするタンパク質形成の道筋を明らかにした、ジャック・モノーの「セントラル・ドグマ」が確立するのは、この会議の一〇年後である。分子生物学の偉業を認めつつも、セントラル・ドグマを批判するエクト・バイオロジー(細胞膜の重視)や細胞社会学の主張は、さらに一五年以降になって出現する。井尻氏らが批判する近代主義は機械論を超えて構造化し分節化して、批判者の方こそ化石になっていった。

地団研の活動は地学や考古学の愛好者を一般市民層にまで広げた功績は認めなければならない。そういう教育効果はあったろう。今日の福井県が恐竜王国になったのは、井尻氏の鉄則・集団研究法からでなく、一九八二年に河原で家族とハイキングしていた少女が手にした一個の黒光りする化石への好奇心から始まった。この好奇心の種子を撒いたのだ、と言えなくもない。やがてこれが、それまで日本には存在しない、ナウマン象止まりと井尻氏らが考えてきた恐竜の歯であることがわかって、日本中の大ニュースになった。その後の総合調査(権威主義的でない集団研究!)で新種恐竜四体(フクイサウルス、フクイラプトルなど)を含む膨大な化石群が発見され、いま、総合展示場の福井県立恐竜博物館として多くの人々を引きつけている。井尻氏はこれらの偉業を見ながら、どんな思いで二〇世紀末に亡くなっていったのだろうか。『竹村民郎著作集完結記念論集』三元社編集部編、2015年12月刊、所載