生前の大拙は、気が向くと、北鎌倉から鎌倉の中心街を抜けて稲村ヶ崎の先、七里ヶ浜から山沿いに入った金沢時代からの親友、西田幾多郎の家まで、小一時 間もあろう道を歩いて訪ねるのだった。戦争末期には、長女の死を見舞う手紙を同じ市内の西田が住む姥ヶ谷宛に出し、その中で「空襲があると孔にもぐりこま なければならぬ」ので、外出も面倒でじっとしている旨を書くと、西田も礼状で「人生の事今夕も図り難し」とした上で、「空襲には実に閉口、極楽寺の方へ高 射砲の破片など堕ちた由」と書いている。心友西田は終戦も待たずに死に、大拙はそれからなお二十一年も生きる。私が大拙の名を知ったのは、大学時代に、岩 波新書赤版で『禅と日本文化』を読んでからである。この序文で西田が、「君は最も豪そうでなくて、最も豪い人かも知れない」といい、「私は思想上、君に負 う所が大である」と述懐する。西田哲学の培養土は大拙の世界なのである。
大拙は、明治二十四年、東京から横須賀線が開通しておった(ただし北鎌倉駅はまだなかった)にもかかわらず、電車にも乗らず、歩いて北鎌倉円覚寺の今北 洪川老師に初めて参禅してから、最初の宗論書『新宗教論』を書くまで、わずか五年しか経っていない。きわめて濃縮した禅体験の研鑽期であった。初の参禅翌 年には洪川老師の遷化に立ち会い、ついで円覚寺の奥、池の左上にある正伝庵に寝泊まりして、円覚寺派管長になる釈宗演老師に参禅して、東京帝国大学の哲学 科選科に入った。さらに明治二十六年には、シカゴ万国宗教者会議に出席する宗演師のためにその講演原稿を英訳するなどした。この夏、漱石が同じ円覚寺の帰 源院に初めて参禅して、大拙の英訳に手を加えたといわれる。
大拙は金沢に生まれ、鎌倉で禅の修行に励み、滞米生活を挟んで、鎌倉、京都と移り住み、京都では大谷大学で学究生活を送った。戦後の長い滞米生活を除け ば、鎌倉は一貫して大拙の生活の場であり続けたのである。
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